ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世鎮守社に角力を奉納することにした。「延方角力」の起こりである。ところがこの地域一帯を、藻草の採集場としていた鹿島郡神野新田、近根三田、佐田、谷原(現鹿嶋市)の各村から異議の申し立てがあり、同年W秋にふたたび評定所での争いとなった。この時も鹿島郡大船津村、爪木村(ともに鹿嶋市)と、延方村との間で交わされていた文書を証拠として、鹿島郡の村むらはこの地域では藻草を採集できない、という旨の延方村勝訴の判決が出された(「徳島新田創立開基録」)。勝訴の翌年、水戸藩では郡奉行平賀勘衛門を先頭として本格的な開発を開始した。延宝元年三六七三)から、三年までの三年間で、平賀は潮来領一Oか村の農民を動員し、公費を投入して屋敷地の土盛りや用水路工事を行い、各五畝歩ずつの屋敷地と家屋二O軒分を造成した。それぞれ一O軒ずつ割り当てたが、結}こに延方、潮来両村からの入植者を、果的に入植したのは延方から一八軒、潮来からは二軒にとどまった。さらにこのあとも、藩の積極的な対応は続く。たとえば屋敷地、田畑に対する七年間にわたる年貢諸役の免除、@の極印を付した小船二O般の分与などのほか、苗代田に対する援助など、至れり尽くせりである。このような水戸藩の開発奨励策もあって、藩全体の開発が停滞期にはいった享保年間以降も耕地の増加は継続した。)れは新たな砂州が新田の周囲に形成され、それが順次開発されていったためでもある(前掲植田論文)。入植の開始から一三O年余り経過した文化十三年(一八二ハ)の戸数は、この増加分はすべて当初の農民二当初の二・四倍増の四八戸になった。O戸の分家である。石高はかなりの早さで増加を続け、「元禄郷帳」では一二八石余りだったものが、享和三年(一八O三)には一五O七石余りと一O倍以上の増加率である。周年の延方村は八七五石と半分程度の石高である(『常陸344紅葉郡鑑』)。しかし先の大洲新田とは異なり、かなりの石高になっても独立村とはされないばかりか、初めて組頭が置かれたのが文化十二年(一八一五)のことである。結局延方村徳島組として、延方村庄屋の支配下のまま幕末を迎えることになる(前掲植田論文)。