ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第三節さまざまな騒動と一撲江戸時代の村H近世村落は、基本的には近世初頭の検地新田開発と争論の前提と「村切り」によって成立したが、}の村は幕藩領主の支配の媒介ともなった(一村を複数の領主が支配するともあったH相給村落)。村を単位とする支配(村請制)が確立してくると、村は共同体としての側面をつよめていく。つまり、農民たちは、自己の生活を展開する村の一員として、行動することを強いられるようになるのである。ところでこのような村の確立は、しばしば村と村の対立を招来することにもなった。とりわけ関東農村のように、錯綜した所領配置がみられる地域にあっては、他領(領主を異にする)の村むらとの間で村境をめぐる争論などが頻発した。また利害の一致をみた場合には、村の連合によって領主支配に対抗することもあった。}の節ではそうした農民たちの潮来地方の村むらと農民生活行動の在り方を、事例にそくして把握してみたい。そのさい村と村の対立に関しては、潮来村と大洲新田村(ともに水戸藩領)の聞にみられた、「大洲新田藻草場入会争論」を事例としてとりあげることにしたい。また他領の村との争論については、徳島新田の帰属をめぐって、延方村水戸藩領と鹿島郡下幡木村旗本新庄隠岐守知f丁所との間みらオ工た争論をとりあげる。さらに、村の連合によってたたかわれた、水戸藩宝永一撲についても若干の紹介をおこないたい。第2章なお「大洲新田藻草場入会争論」に関しては、植田敏雄氏が「大洲新田の藻草場入会争論」(『ふるさと潮来』七号、以下A論文という)によって、また徳島新田に関連する争論については、同氏が「水戸藩領潮来地方の新田開発」(『茨城県歴史館報』一O号、以下B論文という)のなかで論じられており、この節では植田氏の論考を随所で参考としている。また上記の争論に関する史料は『潮来町史料近世編』(潮来町史編さん委員会編)にょった。さて大洲新田の開発については前節に詳しいが、ご}では本節の考察に必要な範囲で簡単に捉えておきたい。植田氏によれば大洲新田の開発は、戦国期末の土豪による開発にはじまるとされる。つまり天正三年(一五七五)に、下総国香取郡村田の城主であった村田有通が、鹿島神宮参詣の帰途にこの地に漂着し、開発を志したことにはじまり、有通の第二子彦五郎が従者とともに、大洲に移住して開発を開始したという。また村田氏の系図には「文禄慶長ノ頃近郷ヨリモ入百姓有之、家数七軒トナル、依テ七軒島と唱ヘル」と記されているという。近世初頭の開発、とりわけ徳川氏領における新田開発においては、主家の滅亡などによる浪人層によって開始され、そこに近隣の村から入作として、開発に従事していた農民が本村を離れて定住し、村としての機能を整えていくことが多かった。また関東郡代伊奈氏はそれを奨励していた(たとえば葛飾郡二郷半領に発給された伊奈氏の開発手形などにみられるoM『三郷市史』参照)。大洲新田の開発もそうした近世初頭の、開発の形態をしめすものであったと捉えられる。大洲新田藻車場争論の経過を、史料を抜粋しつつ藻草場争論の展開捉えていきたい。乍恐以書附奉願上候事大洲新田之儀、麦作相仕付候儀先年より去辰ノ年中迄、南浦地345