ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世続キ之海ニ市藻草取来、畠方七拾石余蒋仕付申候、当年ノ儀も例之通村中百姓共、右之場所へ罷出藻草取申候所、潮来村より被追近出其上舟具並藻草取樟弐百本余被取揚迷惑仕当分蒔仕付罷成W不申候大洲新田はこれまで地続きの南浦で藻を刈り取り、麦作の肥料に用いてきたことがわかる。ところが今年(元文二年H一七三七)になって、潮来村の農民によって南浦への出入りを禁止されてしまい、藻草刈りための樟と舟具を奪い取られてしまったという。)のように争論の当事者の一方が、道具を奪い取ることはよくみられることであるが(藤木久志「豊臣平和令と戦国社会」)、}うした行為が特定個人としてではなくまさに潮来村として、大洲新田(村)に対しておこなわれたことが記されている。つまり「村落間争論」として把握されるべきものであった。」のこム」に関して、っ、ぎのようにもみられる。私共右返事承届又々押返シ申達候者、御両使之趣不得其意候、大洲新田之儀者先年より潮来村-一市、万端何事も一同之義と相心得罷在候得者、脇村とハ別段之事と存今以罷在候所、当年ニ至り左様成思召難心得存候、何そ大洲新田より其御村へ心鉢相替儀も有之哉、此段承知申度御座候と申達候得者、右村役人衆より被申候者、別而左様成儀も無之由事-一御座候事潮来村が実力で南浦への出入り閉止していることに関して、大洲新田の農民たちは、「潮来村と大洲新田は他村と異なり、何事も一体であると考えていたのに、今年になって突然取らせないというのは何か大洲側に落度があったのかと尋ねても、そのようなことはない(植田前掲A論文の訳)とする、潮来村の対応を訴状に認めているのである。つまりこのことは、本来は一体と考えていた両村の関係において、潮来村農民の認識に変化が生じたことによって、争論は生起したという側面をもっこ346とをしめしている。さてこの争論において、水戸藩当局は大洲村の訴えをみとめ、近隣の矢幡村、牛堀村、上戸村の庄屋に仲介を命じている。その結果、南浦(浪逆)、二重谷海の藻草取りは、日を定めて、初め一日は潮来村の農民が取り、翌日からは両村で入会にすることで、一応の妥協が成立したのであるが、一七年後の宝暦四年(一七五四)になって、ふたたび藻草場から大洲新田農民が追い出されるという事件が起こり、争論へと発展してL、b O21つぎの史料はその争論における、大洲新田農民の最終的訴えをしめすものである。当村之儀ハ馬ハ持不申、内こい(肥)等ハ一切無之、殊-一水付之畑一一御座候問、藻草外助ニきL不申至極難儀仕候、依之奉願上候ハ、大洲新田地続北地甲海洲海者深洋境迄御領内大洲新田海-一御座候、当新田支配ニ被仰付被下置候ハ、難有奉存候、潮来村内ニ相成候而ハ、乍僚御他領分一一罷成深洋も段々境越、御上御不益当新田傷罷成申候大洲新田にとっては「甲海洲の深洋(川の最深部のことか)境までを、大洲支配としていただきたい。}れを潮来村内とされると、他領同様になり藩の不利益、大洲の傷みにもなると嘆願して」いる(植田前掲B論文の訳)。つまり、大洲新田側の主張は、潮来村の主張がとおったならば、自分たちの生活は成り立たない。ひいては、水戸藩当局の不利益ともなるとして、自らの訴えを正当づけるものであった。そして、そこから導き出される最終的な要求は、潮来村との入会による藻草採取ではなく一定の藻草場(甲海洲の深洋境)の自村への帰属要求であった。つまり、村としての、さらなる自立の要求と捉えられるのである。藻草場をめぐる両村の争論は、}れ以降にも生起したが、天保四年