ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

(一八三三)に一応の和解が成立し、議定書が作成されたという。議定の内容は「三月一日より九月十五日までは藻草番人一人を置き、九月十六日より翌年の二月晦日までは運上人が番人を兼ねる。藻草取りを調ぺるのは、その年の藻草番人に限り、大洲の者が藻草を取っていたら、声をかけておさえ、逃げ去らない場合にはその者の名前を聞いて、潮来村役人に届ける。それを潮来村役人が大洲へ通知し、大洲村役人から潮来村庄屋へ詫を入れる」というものであったという(植田前掲A論文)。なぜ約一OO年にもわたって争論は続いたのであ入会地争論の背景ろ論っか。」の点に関して若干の検討をこころみておきたい。さて、時代が前後するが、寛永十八年(一六四一)水戸藩全領検地の一環として、大洲新田にも検地が施行されている。そのさいの検地帳の表紙には、「板久郷大須新田御検地水帳」と記されており、田・畑・屋敷地の面積の総計は二三町三畝一七歩とみられる。名請人は六O人、うち屋敷地登録人は二九人みられる。表紙に「板久郷大須新田」とみられることから勘案すれば、}の新田は潮来村を開発主体としていたとみ潮来地方の村むらと農民生活てよいであろう(但し何々郷という記載は中世以来の広域地名であるが)。また屋敷地登録人二九名を、大洲新田に定着した農民ととらえるならば、この時点で村としての機能を整えるため、前提が出来つつあったととらえることができる(大洲新田に居を構える農民の存在が、藩当局に公式に認められていることによって)。「文禄慶長ノ頃」(一五九二i一六一四)には七軒の農民のみであったものが、二九人(入作農民を含めると六O人)へと急増したことがそれを裏付けるであろう。第2章さらに、正保二年(一六四五)には、潮来村庄屋の管轄から離れて、大洲新田村独自の庄屋が任命され、年貢の上納においても潮来村から分離したという(値目前掲A論文)。つまり正保二年にいたって、領主支配の面でも潮来村から一応の自立を果たしたことをしめしている。とはいえ意識の上においては元文二年(一七三七)の段階でも、潮来村と大洲新田は「何事も一体」としていることは、先に記したとおりである。ところで、先の寛永十八年の検地帳には、大洲新田の田・畑・屋敷地面積の総計として二三町三畝一七歩がみられた。}の新田に付された石吉岡が、どの程度のものであったかは不明であるが、正保二年(一六四五)の新田村高は一O一石、宝永五年(一七O八)は二三二石、延享四年(一七四七)は二七八石、天明四年(一七八四)は三六七石、文化四年(一八O七)には四一四石と増加している(植田前掲A論文)。さらに天保五年(八三四)には四二二石(「天保郷帳」)、明治初年には六七六石(「旧高旧領取調帳」)へと増加している。この村高の増加が、新田開発の進展H耕地増加によるものであることのはいうまでもないが、とりわけ延享四年から天明四年にかけて、大幅に増加していることに気付く。克文二年(一七三七)を初」の時期はまた、見とする争論の開始時期とほぼ一致する。耕地の増加は必然的に投下すぺき肥料(藻草)の増大をもたらす。そしてこの時期、公法上において大洲新田は「村」として、潮来村から自立しつつあった。こうした新田村落の「村」としての自立が、争論を生起させる背景となっていたのであろおっ。つまりかつては枝郷としであった大洲新田の発展が、すなわち潮来村の発展とはならなくなったときに、潮来村内部にも大洲新田を他村としてとらえる認識が生まれ、それが表面化したものが、天保期まで続くことになった「藻草場争論」であった。347