ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近Wまず争論の様子を知るために、「徳島創立開基録延348徳島新田の帰属をめぐる争論方新田公事大洲開基之事」(『潮来町史料近世編』)という史料を、要約してしめしておきたい。延方村前洲の徳島新田は初めは東の方の離洲であったが、寛永十一年から寛文十四年の約四0年間、その帰属をめぐって下幡木村と争ってきた。水戸藩郡奉行がその様子をみて、寛文十一年に同所を鷹野場とし、鳥御番所を置いて昼夜の番人をおいた(争論のために鳥御番所を、新規においたのではないことが後に認められている)。回この時の下幡木村の領主は新庄隠岐守であったが、同氏は江戸新において訴訟におよんだため、双方評定所(幕府)において争論を島おこなった。徳四そのさい、延方村は先年に洲に石高を付して、年貢地としてい第IV-24図る証拠として慶安二年の検地帳を提出した。下幡木村にはそうした証拠がないので、訴えは下幡木村の非分であるということになった。五また正保期に幕府は水戸光固に対し、常陸一国の絵図(国絵図)の作成を命じたが、そのさい家中の望月五郎衛門は、鰐川を鹿島郡と行方郡との墳として提出した。その絵図を幕府の蔵から取り出してみたところ、間違いないことが判明した。--'-/\ところが、鹿島郡(神野新田、根三田村、佐田村、谷原村など)の農民たちは、これまで延方村と入会場として藻草を取ってきたので、鰐川を郡境とすることは迷惑であると主張し、ふたたび争論となった。七それを否定する証拠を延方村は所有していたの右に関しても、