ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

で、鹿島郡の村むらの訴えは認められなかった。/\これらのことによって寛文十二年十二月六日に、幕府評定所において徳島新田が、延方村のものであることが認められた。九また延宝元年には、水戸藩の命により潮来領の人足を動員して、当該地に家二O軒の普請がおこなわれ、一人に付き七四聞の苗代場と畑が下賜された。二O人の内訳としては、延方村より一O人、潮来村からも一O人と命じられたが、延方村から一八人、潮来村からは二人が入植した。年貢に関しては当初の七年間は免除となった。長文となったが以上が要約である。さて、徳島新田をめぐる争論においては}とごとく延方村の主張が認められている。なぜ延方村の全面的な勝利となったのであろうか。のことに関して植田敏雄氏は前掲B論文において、「証拠を揃えた延方側の申立は有利であったろうが、その背景には御三家水戸藩の権威と、藩領拡張への積極的な対応を無視することはできない」とされている。江戸時代における争論の裁定では、先例主義による場合が多かった。ま潮来地方の村むらと農民生活た土地の帰属にかんしては属地主義的であり、どちらの検地帳に登録されているかということが、裁定における最大の理由となった。右のことは延方村が勝利したことにもしめされていよう(慶安検地帳の存在など)。ただ水戸藩が揃えた証拠も、きわめて暖昧なものであったことは、要約文によってもわかる。}うした延方村の主張H水戸藩の主張が認められる背景には、植田氏の述ぺるように権威の問題があったものとおもわれる。第2章ところで村境や入会地をめぐる争論、とりわけ領主を異にする村と村の間の争論は、関東においては寛永期以降に多発するようになる。そオもはなぜなのだろうか。つぎに記した幕末期における鹿島・行方両郡、および常陸一国の所領構成をみたい(「旧高旧領取調帳」より作成)。行方郡幕府領H三・二六%、旗本領H一九・八九%、水戸藩領H二九・九四%、麻生藩領H二九・二七%、松川藩領H七・五O%、石岡藩領川一0・一四%鹿島郡幕府領H二・OO %、旗本領H七0・0六%、水戸藩領H九・五九%、松川藩領H九・三五%常陸一国幕府領川八・三四%、旗本領1工ハ・八四%、水戸藩領H三二・=二%、その他の藩領H三二・コ二%とりわけ鹿島郡の所領構成をみると、旗本(幕府の直属家臣、万石以下)の知行所(領地)がきわめて多いことに気付く。}れは寛永期と元F}禄期におこなわれた「地方直し」の結果である。「地方直し」とは、俸禄取りから地方知行取り(直接村を支配する方法)への切り替えのことであるが、その切り替えの対象地が、下総国や隣接する常陸西部に多くもとめられたという指摘がある(小暮正利「初期幕政と『寛永地方直し』」『駒沢史学』二一号)。右の記載によってもあきらかとなる。近世の村は、地検とともにおこなわれた「村切り」によって、応、ロコ範囲が確定したといわれる。しかしながら隣接する村むらが同一の領主に属する場合は、「村切り」は不徹底になる場合が多かった。こうした村むらが異なる領主の支配を受けるようになると、村墳を明確にする必要にせまられ、村境争論や入会地をめぐる争論が多発するのである。徳島新田をめぐる一方の当事者である、下幡木村の領主は旗本新庄氏(後に麻生藩を継ぐが)であった。すなわち徳島新田をめぐる争論もまた、こうした所領配置の錯綜化がもたらしたという、側面をもつものであっ349