ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近Wたのではなかろうか。徳島新田をめぐる争論を以上のようにとらえ、応の結論としたい。水戸藩における農政の基本は、初代藩主頼房のとき水戸港宝永一撲にほぼ完成したといわれる。つまり農民の土地緊縛、農民生活の細部にわたる統制と農民心得の強制、藩領以外からの入穀の禁止などがそれである(水戸藩独自のものではなく、幕藩領主に共通する政策であるが)。続く光固による農政も、基本的には頼房のそれを踏襲するものであった。ただ光園の治世の時期である寛文二年(一六六二)から元禄三年(一六九O )は、全国的に飢鐘が多く発生し、水戸藩も例外ではなかった。農村の人口は減少し藩財政は逼迫した。}うしたなかで藩当局は、領外に「他出」した農民に対する「人返し」や、窮乏人の救済をおこなったが、藩に入る年貢の量は減少しつづけ、元禄元年(一六八八)には最低を記録している(『勝田市史』)。」うした状況は光聞の代で解決することはできず、松波勘十郎らを中心とする「宝永改革」が断行されることにな350った。助十郎堀跡〔茨城町〕松波勘十郎は美濃国に生まれ、成人して庄屋を勤めていたが美濃を離れ、以降三河国の検地奉行となったのを皮切りに、大和郡山藩、備後三次藩、磐城棚倉藩などの藩政改革を手がけたという。そして宝永三年(一七O六)には水戸藩に召し抱えられている(林基「松波勘十郎捜索」『茨第IV-25図城県史研究』に連載)。宝永改革では農村に居住している郷土らを、農政の末端に位置づけて積極的に利用したり、藩内を二六の区画に分けて、それぞれに郷代官を配置するなどがおこなわれた。また大洗海岸と澗沼を結ぶ大貰運河ゃ、紅葉運河の開削を計画している。)れは城米の江戸への輸送などのために、水戸藩領を通行する東北諸藩の利用を期待し、通行税を徴収して藩の財政に寄与しようとするものであった。ただし失敗に終わる。松波勘十郎の施策のうち最も過酷をきわめたのが、年貢増徴政策であった。それは籾によって納めていた年貢を米納にすること、そのさいこれまで一俵四斗二升入りで勘定してきたものを、今後は四斗入りで勘定する。同じく雑穀も五斗三升入りを、五斗で勘定するというものであった。結果的にはそれぞれ二升の増徴になるという(『勝田市史』)。}のため水戸藩庁や松波は、藩領の農民たちの強い抵抗をうけることになった。}れを宝永一授という。宝永一撲における水戸藩領農民の要求の中心は、年貢増徴に反対するものであり、宝永改革における最重要施策を否定するものであった。このような要求をもっ一撲にさいして、水戸藩の支配をうけた潮来領村むらの対応はどのようなものであったのだろうか。右に関しては関戸如水によって著された、「水戸御改革の事」という