ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

記録が残されており、根本義三郎氏によって翻刻と詳細な解説がおこなわれている(根本義三郎「関戸如水著『水戸御改革の事』について」『ふるさと潮来』八号)。この記録はきわめて長文であるため、全文を引用することはできない。そこで根本氏による要点の整理を、主に参考としたい。さて、当然のことながら、潮来領村むらも宝永改革の影響をうけた。記録には例えばつぎのようにみえる(根本氏の翻刻による)。「(略)潮来の窪谷圧兵衛も代々分限なれどもその頃は諸大名借(貸)し、済方なく不手廻り成る処、さる御大名様より千三百両の済方之有り候事を、勘十郎聞き出され候ゃ、いまだ、城之内の御普請も未熟なる所に、串引び川岸役人と仰せ付けられ(略)」「(略)兵左衛門より仰せ付けられ候は(関戸利左衛門氏が)、『潮来領十一ヶ村当亥の御城米改め、取り立て、船積み吟味致し、江戸の御蔵納め迄の役儀仰せ付けられ候問、相勤め申す可き由』仰せ付けられ候。利左衛門申し上げ候は『私儀』さやう義事なれ申さず、殊更不調法者、御大切の御用いかが相勤めかね申す可く候』由、いろいろ御免成し下され度き旨、願候へども相叶わず潮来地方の村むらと農民生活(略)」「潮来領拾壱ヶ村の義、累年日損、水損塩水腐れ打ち続き、百姓共悉く困窮共迷惑仕候処、去々年御改革御定法に仰せ出され候は、『天災は格別、悪作、不作の分は百姓不精故致す事に候問、一切御引方下されず候(略)』」「去年作付けの義、新川御普請人足度々仰せ付られ、四四月末迄相勤め申し候故、春耕作より段々不手廻りにて、田畑共に諸作仕第2章付けの時をたがい申し候故、実のり悪敷く迷惑仕り候所に、御取付けの義、御了簡も御座無く候(略)」五「村々各免の義は、其村の内にて、悪土地にて去年より度々百姓御未進仕り、迷惑に及び候に付、御訴訟申し上げ、土地御見分の上、各免に仰せ付され候、其上にも、元来悪土地故百姓続き兼ね申すに付、御種貸しを以て相続き申し候所、却って本郷に御組入れ、俄かに高免に仰せ付けられ、迷惑仕り候事(略)」右は数例のみをしめしたにすぎないが一・二は潮来領において比較的裕福なものへの命令、三・四・五は宝永改革にともなって、犠牲を強いられる農民の姿を抜粋したものである。すなわち裕福なものからは、改革の費用を徴収したり、新規の役職を命じたりしている。また一般の農民が、「新川(運河)」の開削に動員されている様子と、それに伴い農作業が遅滞していることなどが記されている。さて根本氏によれば、宝永一撲における潮来領村むらの農民の対応は、主に訴願という方法をとっていたようである(十数ヶ条におよぶ訴状の提出)。しかしながら「このような潮来領の百姓運動も(宝永一授、引用者)、遂には潮来領十ヶ村から計九十八人に及ぶ面々が江戸へ繰り出すことになる」とも述べられている。宝永一授は江戸での裁定に持ち越され、宝永改革の中止というかたちで、農民側の勝利に終わり、松波勘十郎は処罰された。潮来領一一か村の農民たちも、最終的には一撲に参加したのであるが、江戸での行動などについて知ることはできない。いずれにせよ村と村との連合によって、領主支配に対抗した(一撲H横の連合の形成)農民達の行動は、生活の防衛を中心課題とするものであった。351