ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世近第四節たび重なる災害W自然の災害は古くから人間の生活を苦しめてきたが、特近世の災害に江戸時代、重い年貢や低い農業技術の農民生活では、風水害、干害、冷害、虫害などで凶作となり、それが直一ちに飢僅を引き起こす例が多かった。全国的な大飢鰻といわれている寛永十八年(一六四一)、同十九年、享保十七年(一七三二)、天明三1七年(一七八三1八七)の大災害はその典型である。これを町域の大部分が所属した水戸藩領について、『水戸市史』の記事や地方史料から概観してみよう。最初の大飢鰻とされる寛永十八年は、水一戸藩が支配体制の基礎を固めるため、初めて全領の検地を実施した年である。ところが十八年(巳年)と十九年(午年)は、冷害で米や麦の実入りが悪く大凶作となった。領内の各地で餓死人が出る程で田畑も荒廃した。水戸藩では麦、雑穀の移入、夫食米、種籾の貸し付け、貯穀のある者からの買い上げ、年貢の減免など救他策をとっている。享保期には享保二年(一七一七)、六年、七年、八年、十三年と洪水が続発した。とくに享保八年には八月八日から十日まで大風雨が続き、「卯年の洪水」と呼ばれる大水害となった。この風水害で水戸藩領の田畑の被害は三四万五一九六石、家屋の流失・破壊五七五三戸、水死人一O人、穀物の流失・水入り五五一一俵と記録されている(『水戸市史巻口』)。天明期(一七八一1八八)に入る頃、農村の疲弊は深刻さを増し、藩政第IV-26図天明飢鐙の記録(天明3年)も財政難で益々352不安定になってくるが、天明年(一七八三)に入ると寒冷が甚だしく、春には長雨が続き五月になっても綿入火があり、関東地方一体に火山灰が降った。あわせ六、七月でも袷を着る冷たい気候であった。加えて七月に浅間山の大噴れを着た程で、町水戸藩南領の大場惣助が記した「天明三卯年より凶年次第留書」(玉造大場家文書)によると、「七月六日の明け方砂降りになった。大霜のときくらい降って朝五ツ時(午前八時頃)止み晴天となった。六日の夜再び砂が降り、七日の朝少し止んだが、間もなく大降りになって、思一の・フち提灯をともし夜の様であった。七ツ頃(午後四時頃)止んだが、砂は八、あた九分くらい積った。潮来領辺りでは一寸(約三糎)くらい、水戸辺りではた」と室田かれている。一寸二分くらい積ったとのこと、降ったのは石灰のような白い砂であっ}のような異常天候と浅間山の噴火によって凶作、である。飢鍾がはじまり、同七年にかけて、世にいう「天明の大飢鍾」が続くの水戸藩では領民の救済策として、藩の籾倉を聞き一人当り一日二、三合宛の籾を支給したので、領民の餓死者はなかったが、被害の激しかV}中った奥州方面からの難民が流れこみ、諸所に行倒れや捨子があった。のほか、水戸藩では非常対策として穀留を行なって他領への移出を禁止