ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
し、逆に他領からの入穀禁令を撤廃したり、酒造の禁止、勧農改役の領売ることを禁止した。内巡回による穀物調査や、幕府の米買置禁令にしたがって穀屋・仲買にを自由にしたりするなど種々の対策を講じた。しかし、さらに米の出回りを促進するため、米の売り払いこれらの対策を無にするように天明六年七月、関東地方は大洪水となり、水戸藩領の田畑も多大の被害を受けた。)のため、翌七年にかけて穀物の価格が急騰し、七年正月の水戸での相場は金一両に籾一斗七升であったが、北浦西岸の字崎村(麻生町字崎)あたりでは、」の年、金一両に米三斗五升、翌八年の六月中旬より七月までは二斗五升であった(麻生町郷土文化研究会編「績野神社御頭勤番帳」)。天明の飢鍾のあと、文化・文政期(一八O四1二九)は大きな災害もなかったが、天保期(一八三01四三)に入ると、また天候異変による凶作が頻発し、なかでも天保四年、七年、八年の被害は甚大であった。天保四年の凶作は、土用から続いた天候の不順、特に冷気が原因であ潮来地方の村むらと農民生活第2章天保4年「大洲新田御用留」第IV-27図るが、それに追いうちをかけたのが八月一日に関東地方を襲った暴風雨であった。水戸藩全体の被害は潰家八六三四軒、半潰家三七四O軒、死者八一人、田畑の損耗二二万九八三O石、藩有林・社寺林の折木一五万九七六六本という(『水戸市史中巻臼』)。潮来地方では、天保四年の「大洲新田御用留」(大洲区有文書)に、村役人から郡奉行所に宛てた被害届の写しがある。}れによると「八月朔日、辰巳風(南東風)が激しく吹き出して大嵐になった。小さい家の者は防ぐ方法もなく、最寄りの大きな家に集まって難を避けた。近年にない大嵐で大洲の潰家は二四軒(本家二ニ軒、物置小屋一O軒、門一棟)で、の人別が一四三人、ほかに農舟二般が陸に吹き上げられて破損した。村内で家屋の損害を受けない者はない」と記されている。また、近くの字崎村の記録にも「八月一日の大嵐は激しく、官地松木そのほか悉く折れる。近村近辺残り無く右の通りに御座候、悪年の始まり」と北浦湖岸の諸村の様子を書き留めている。この時、町域の大生原地区が所属していた麻生藩では、潰家一軒に金一両を、掘立潰家に金三分、大破損の家に一分二朱、小破損の家に一分宛の救金を出し、その合計金が二八O両余になったという(麻生町五町田鈴木久弥家文書)。このあと、天保五、六年は安定した年であったが、同七年は春から夏にかけて雨天続きの冷気のため、大凶作に見舞われた。}の凶作は九州・四国の一部を除き、全国を襲ったもので、関東地方も大きな被害を受けた。このため穀物の価格が高騰して各地に飢民が溢れ、全国的に百姓一撲が多発した。幕府、諸藩はその対策に苦しみ、幕政や藩政の改革を実施するのである。353