ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

やかになった由、潮来村ではお上(藩)のお世話にはならないと村役人がかみ今日南領より来た者の話によると、延方では飢人に粥を与えたので穏用になるものがないためと聞いている。島か)の水腐れによるもので、此処には他地方にある蔽根びこんや葛根など食かっこんまず、この飢鐘による潮来村や延方村の大級難は、二重谷、流島(徳潮来地方の飢鍾について、種々の記事があるのでみてみよう。楓軒の他見をはばかる機密の覚え書である。そのなかに天保七、八年の年紅葉組の郡奉行を勤め、晩年には藩主斉昭の御側用人となった小宮山「楓軒先生秘録」(茨『城県史料幕末編I』)はすぐれた農政学者で長次に田方の多い潮来地方の飢鍾の様相はどのようであったろうか。いう(『水戸市中史巻口』)。畑方では五五パーセントを占め、田方の多い地域の被害が大きかったと畑方一七万八OO六石、}のうち田方では収穫皆無が八五パーセント損耗高は、十月の郡奉行の報告で田方一五万五六七五石、と潮来地方圏内でもその被害は極めて大きかった。水戸藩の田畑の天保の飢僅天保七年の大凶作は奥羽地方が最も激しかったが、常陸第IV-19表IV近世潮来村窮民小麦救流し月日数量対象戸数石斗升戸人天保7年4月14日1. 3. 9 18(35)9月6日1. 7.8 6(34)9月8日1. 4. 7 2010月6日7.3 810月19日1. 3. 9 1910月21日1. 6 2(11)10月23日1. 4 2(11)1月l日1. 212月9日1. 212月22日2.5 312月29日3.9 4天保8年l月12日42月8日51. 6.0 *41. 0 *12.02月1日2. 0 23月12日2.5 3~百十10. 3.8 97*お救い辞退につき褒美天保7年「荒年救穀物出入諸色覚」より.潮来領の様子である。断片的な記事ではあるが、潮来地方に多数の飢人以上は、側用人として藩主斉昭の側近であった小宮山楓軒が耳にしたしているとのことである。ており、清水村の信六は、年は若いが同様に自分で五O両を都合して出牛堀村の喜源次は辻村啓介からの救いを受けず、その代り自分で出している。粥米を出しており、その他の村の庄屋も施しを出さない者は無いと聞いうえまた何か表彰なされるのかどうか。同村の庄屋五郎作らも窮民へのていただきたいが、既に長万を与えているので褒賞は済んでいる。の辻村の榊原啓介は過分のお救いを出しているので、格式にて引き立て非常時の風俗を励ましたいものである。か、格別の取り扱いをするよう郡奉行所へ通達したい。そのようにしてとである。これらの者は通常ならば御救稗のほかに下し米とか拝借米とある。その者の志操清潔なることは、中国の伯夷叔斎と同様で立派なこはくいしゅくさい潮来・延方・辻村辺めたりでは必死の覚悟を決めて、救いを受けない者が助かった者もあり、同村の榊原啓介が多くの救い米を差出したとの由。第IV-20表病難・窮人救流し穀種数量対象者俵石斗fl小麦23(10.3.5)窮人玄米3( 1. 2. 0)病難者から麦( 4.6.8)病人難者238人極分窮貯稗1030 1俵斗に5入正月より人4月分まで7540貯籾53 1俵升に5斗2入病人難者極分窮238人天保7年「荒年救鍛物出入諸色覚」よりたが辻、村宥2でめはて二そOろ日そもろ食粥ぺをな食いぺ者さIJませいいを受けない者もあるとのこと。き延びても、無益のことであると救には覚悟をきめ、僅か三日や五日生る者を見かけることもあるがなかはりや、痩Z富衰f家えろへて乞よ食ろによ出ろると者救も乞あ、し、る参も申しているが、実際は飢人も多数あ354