ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
じて窮民の救済に尽した様子を知ることができる。が出たこと、藩のお救いのほか、各村の村役人、有力者などが私財を投次に天保七年潮来村の「荒年救穀物出入諸色覚」(東海村尾崎家文書)から、潮来村の様子をみよう。第Wl凶表は天保七年四月から、天保八年三月までに窮民を救済するため潮来村が無償で支給した小麦の記録である。支給の基準は窮民一人につき五升の割合で、子供と二人の場合は七升、三人は一斗、四人は一すくいなが斗二升と定められている。救流しされた小麦の総高は「十石三斗五升」と記されているが、計算すると一O石三斗八升になる。また、救流しのるから対象となった総戸数は九七戸になるが、同じ家で三回支給された者もあ}の時期の救流しの対象は極く限られた一部のものであったと考えられる。ちなみに天保十五年の「潮来御領正人別改」(国立史料館蔵る。須田家文書)によれば、潮来村の家数は六六五軒、人別は二八五七人であこのほか、天保八年正月から四月までの四か月間の救流しとして、第W1日表のように小麦・玄米、から麦・貯稗・貯籾が窮人や病難者、極潮来地方の村むらと農民生活窮者などに無償で支給されている。斗入)は一人分一斗宛、老人と小供は五升の割合で与えられ、}のうち貯稗一O三O俵(一俵に五その延第2章第IV-28図天保7年「荒年救穀物出入諸色覚」ぺ人数は七五四O人におよんでいる。通常の年には「米どころ」として知られる潮来地方でも、凶作年にはきゅうじゆっさく多数の飢え人が藩の救愉策としての救流しを受けたのである。潮来地方は低地の新田が多いため、天保の大飢鍾以後弘化・嘉永・安政期の水害もたびたび水害に苦しめられた。なかでも弘化三年、嘉永二年、安政五年の出水による被害は大きかった。弘化三年(一八四六)は前年に続く洪水の被害が大きく、大洲村の御用留には「田方五百五拾五石五斗三升水腐、白田方百六石壱斗五升*腐」と記録されている。}のため、同年の大洲村年貢割付状には「田皆田方年貢のすべてが免除される程の大被害を受けている。同年九月、潮来領の村々は水害による困窮人救済のため、藩に夫食米引」とあり、の拝借を願い出た。}の願書で潮来村は米一OOO俵、大洲村は米二OO俵、辻村が米一五O俵の拝借を願っている。そして、この夫食米の貸出しが潮来領から遠距離の湊村(那珂湊)で渡すことになったので、各村の村役人達は「運送の道中筋が不安であるため、費用は村方で負担するから藩の御威光をもって潮来村の郷倉まで運送してほしい」との願書を出している(「大洲村御用留」)。}の願いが認められたか否かは'-、ょ-J、4JJf?し明らかでない。嘉永二年(一八四九)には、七月の初めより雨天続きで利根川筋が出水した。さらに七月二十一日の大嵐で大洪水となり、五尺余りの増水となった。この被害見分のため七月二十六日、二十七日の両日、藩の郡奉行が延万村、大洲村、潮来村などを廻村している。この洪水で水辺の村むらでは田方が水腐りとなり、種籾にも困って同年九月、種籾用として船積みした城米の内から貸出しを願い出た。}のとき、大洲村では百姓五O人で種籾一四O俵の貸出しを願っている。355