ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近W安政五年(一八五八)は五月中より雨天が続き、増水のため田植のできない所が多かった。大洲村の田畠水腐書上(弘化3年)第IV-29図そのため、苗なども用意して田植の時期であったが引水を待ったが、六月に入って利根川筋が大水となり、新田村も本郷村も水辺の田畠が泥水をかぶった。三年続きの凶作となり、百姓達が懸命きが残っている(大洲区有文書)。に努力しても人の力では及ばない大事なので、訴え申し上げるとの下書さらに翌安政六年九月の願書によると、七月二十五日と八月三日の両度の大嵐で一帯が冠水し、水腐りとなって難渋している。御年貢は従来見分をお願いしたい、から定免制となっているが、格別の御慈悲をもって今年一か年だけ検見、と潮来領の村むらが願い出ている。ちなみに大洲村では嘉永三年(一八五O)以来、原則として一定の期間大洲の歴史内、豊凶にかかわらず定められた年貢を納めるじようめんせい定免制となっていた。356とろzうまの年冠水より大きつなま被り害破はを免め戸工んJ正けたので、検見による年貢の減免、を願い出たものである。」の願いは聞届けられたようて大洲村の御用留には同年十一月十日の日付で、「籾百四拾五俵右風当等に付小検見願有之候処見切を以前書之通御救相済候条云々」と見切りをもって御救籾の支給が決定されたのである。同様に他の村むらにも被害高第IV-30図に応じて御救籾が与えられその籾数は第Wl別表に示したようになる。}の年の被害がとくに低地の新田に多かったことは右表からも明らかである。る。開発者の子孫が編さんした「村田大系図」によれば、大洲新田の開発は戦国時代の末期にはじま大洲の災害大洲開発の基礎をつくった村田家の先祖は千葉氏の末流で、下総国香取郡村田(千葉県香取郡大栄町)の城主村固有通である。天正三年(一五七五)、有通主従が鹿島参詣の帰途、}の洲に漂着し開発を志したという。天正十八年小田原城の北条氏に味方した宗家千葉氏の没落は、末流村田氏の没落に連なり、有通の第二子彦五郎は従者を連れて}れが大洲新田開発の起源である。大洲に移住し、開拓をはじめた。初期の開発状況は不明であるが、前記の系図に「文禄慶長ノ頃近郷ヨリモ入百姓有之、家数七軒トナル、依テ七軒島ト唱ヘル」とあるところから、村田氏主従のほか、近隣から入百姓のあった様子がうかがえる。