ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

寛永十八年(一六四一)の「板久郷大須新田御検地水帳」では、「田畑屋敷合弐拾参町三畝拾七歩分米合弐百壱石壱斗五升六合」と開発は進展し、名請百姓六O人、うち屋敷所有者が二九人と記録されている。その後、正保二年三六四五)、大洲新田は本郷の板久村(潮来村)庄屋の支配から離れ、初めて大洲に庄屋役が設けられた。また、年貢も板久村から分離され、大洲新田独自の年貢割付状が出されるようになった。以後、大洲新田は次第に村高を増加させていくが、「大洲新田」から「大洲村」となるのは、天保検地の一環として村の分離統合が行われた天保十四年(一八四三)のことである。大洲区有文書のうち、年貢割付状は正保二年(一六四五)以村高の増加降のものが二二六通残っている。第wln表は大洲新田の村高の変遺を一0年間隔で表したものである。大洲新田に庄屋役が設けられ、年貢割付も板久村から分離された正保二年の村高は二O一石余で、その後も約五0年聞はほとんど変りがない。」れは寛永検地の村高と同じである。」れらは寛永検地以後、新開検地などが行われていないことを物語っている。そして(一七O五)ごろから多少の増減を辿り、享保期(一七二ハi三五)の後半その後、宝永二年潮来地方の村むらと農民生活第IV-21表安政6年瀬来領村むら御救籾俵数第2章には二七O石台に達する。その後漸増を続け、宝暦(一七五了、,六一ニ)の末期には二二O石を村名籾俵数新う田ち分潮来村136俵51俵大洲村145辻村56延方村1708 1 167古高村矢幡村39富田村14永山村148 118牛堀村40上戸村74 70合計2360俵1407俵安政6年「大洲村御用留Jよりこえ、明和・安永期(一七六四1八O)と順調に石高を増加させ三五O石台になる。しかし、凶作、飢鍾が頻発した天明・覧政期(一七八一i一八OO)に増加は全くみられない。凶作で飢え苦しむ生活に開発の余力はなかったろう。常陸国内でも天明の飢鍾を契機として、農村の荒廃が急激に進行した地域は多い。文化期(一八O四1一七)に入ると大洲の村高は再び増加に転じ、表には出ていないが文化四年(一八O七)には正保期の二倍の四一四石余に達し、その後も天保初期まで微増を続ける。そして水戸藩全領検地後の天保十四年(一八四三)には一挙に二五O石余ふえ、村高は六七三石余と激増している。水戸藩の天保検地は従前の六尺の検地竿から六尺五寸竿に改めたため、水戸藩全体では石高が四一万八OOO余石から、=二万七000余石と約二四パーセントも減少している。ところが大洲では逆に五八パーセントも石高を増加させ、}の年に「大洲新田」から「大洲村」となり、名実共に独立村となった。この天保検地による大幅な石高ゆるやの増加は、新開発地の村高組入れや、水害地保護策として緩かな検地による縄延びなどが、藩の統一基準によって一斉に実施された結果の打出高と恩われる。以上、概観した大洲新田の開発は、同じ町域内で隣接する徳島新田(水戸藩領)、二重谷新田(幕府領)と共に、開発の初期から天保期に至るまで一貫して開発高を増加させた特異な地域であるが、天保期以降は共に開発を停滞させている。}の直接的な原因は開発の条件が消滅したとにあろうが一面では幕府の政策とも深く関わっている。すなわち幕府は霞ヶ浦・利根川沿岸の水害の増大を防止するため、天保二年(一八三一)に「水行直し御趣旨」を出し、下利根川沿岸各村に流水の障害になるものを一切禁じる方策をとっている(根岸門蔵『利根川治水考』)。さらに同九年(一八三八)には下総国佐原村(千葉県佐原市)下流の流路を改修しついで同十一年には流水が形成した付洲、寄洲の新田開発ゃ、震357