ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

潮来地方の村むらと農民生活第2章調な発展を意味するものではない。回目頭でみたように、江戸時代には全国的な凶作・飢鍾など多くの災害が頻発したが、特に低湿なデルタ地帯を開発し、十分な堤防もなく、上流地域からは遊水池ともみられていた下利根川流域の新田村にとって、定期的ともいえる水害は宿命ともみられた。大洲新田に独自の庄屋がおかれ、年貢も別割付になった正保二年(一六四五)から明治に至る二二O余年間の年貢割付状を調ぺてみると、大洲の災害が一目瞭然である。大洲の水神さま第wlm表は大洲新田の年貢のうち、災害のため年貢の引き高(免除高)が村高全体の三割(三Oパーセント)をこえた年を抜き出したものである。これでみると二二三年間で六O回を数えるから、実に三・七年に田方の年貢についてみると全引(全免)、一度の割合となる。しかも、てコまり年貢高の全部が免除になった年が貞享四年以降に一一回ある。それに全引同様の享保二年(一七一七)、天明二年(一七八二)、文政七年(一第IV-33図八二四)を加えると、一六年に一回の割合になる。この田方年貢の全免は田方の収穫が皆無であるか、または皆無に近い災害の発生を意味するものである。そして、この災害はほとんどが水害である。第wlm表の備考欄に、村高の五Oパーセントをこえる引き高のあった年について、引き高の主な理由をあげてみた。新田の周囲に防水堤が無いため、大雨が降ると上流一帯の流水が押し寄せ、冠水による苗腐れとなる。年貢割付状に「水腐」とあるのはこれを指し、潮来地方の水害の大部分を占めている。引き高の理由のなかに、宝永二年(一七O五)から宝暦二年(一七五二)す伝おきまで連続して「砂置」の名目で六四石余の引き高が記載されている。v}れは洪水などにともなって大量の土砂が耕地の上に堆積し、耕作不能に361