ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世近IVなった状態を指し、原因は水害によるものであるが、他の水害とは異なり、その回復には長年月を要している。また、宝永三年に五七石、同六年に八九石、享保二年(一七一七)に九しお〈ち六石が「潮朽」の理由で引き高になっているが、}れは塩害のことである。「潮来」の村名からも想像できるように、霞ヶ浦、北浦を含めた下利根川流域は、銚子川口から海水が逆流してくる水域である。海水の逆徳島新田絵図第IV-34図流の激しい年には、瀧減用水の塩分が強まり、稲に被害をもたらしたの362である。大洲の災害でもう一つの特長は、他の地域に多い干害がほとんどないことである。割付状に「無水不作」と記される干害は、文化四年(一八O七)が総引き高二四一石で、うち水害引き高一一八石、干害引き高一二三石と記載されるだけである。四周を水に固まれた大洲新田では当然ともいえよう。以上、右にみたように大洲新田の開発は、常に水害に苦しめられてきた。この大洲の災害に対する水戸藩の保護・救済策の第一は、田方免・畑方免とも他の地域に比較して格別に低率であったことにあるだろう。それに加えて「御用留」にみられる凶作年の扶食米や種籾などの年賦貸出し、また、天保検地の打出高から推定される新開発地支配の緩やかさであった。これらが水害の頻発にも拘わらず、大洲新田の村高の増加や戸数の増加をもたらした最大の理由と考えられる。『国用秘録』からみた二重谷村と徳島新国前述の大洲村と並んで潮来地方の三大新田といわれる二重谷村・徳島新田も、共に水害の頻発地域であった。したがって、領主側もその実情に基づいて検地や年貢などに保護策をとっている。じかたしょ水戸藩の郡方役人で学者でもあった坂場流謙が書き残した地方書、『国用秘録』(茨城県史編さん委員会編『近世史料I』)からその一端をみよ、,『ノ。坂場流謙は同書巻之「諸木植立之事」のなかで、「肥鏡の地株場の遠近用水堰元江末市場海辺山中検地したる水帳の面以来検地竿入の助ともならんかしと記置もの也」として、}れからの検地の参考とするため書留めたものである。