ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

まず、潮来町域で唯一の幕府領(天領)で、代官支配地であった二重谷村(当時高五三五石八斗一升一合)については、「二重谷村は潮来村の地続きで人家も竹木も全く無い無民戸村で、耕地はすべて潮来村民が耕作している。二重谷村は利根川・震ヶ浦の川尻にあるので、水かさが四尺余もふえれば田畑共に水腐りとなって収穫は皆無となる。そのため検地の竿先を広くしてあり、規定通りに竿入れすれば二千石余りもあるだろう(大意)と記している。なお、同書に延享元年(一七四四)の二重谷検地帳写しの一部を載せてその中に幕府の勘定奉行神尾若狭守の名で「右は常陸国行方郡二重谷村検地被仰付六尺壱分間竿を以壱反三百歩之積外壱割之余歩ヲ以検地相極もの也」とある(傍点は筆者)。いるが、この記載で、六尺壱分の検地竿をもって一問、三百歩をもって壱反とするのは普通であるが、}のほか「壱割の余歩」をもって検地すること、つまり、一反歩につき一畝宛の増地を加えることを定めているのは、水害地の実情を考慮した検地の仕方といえよう。なお、著者の坂場流謙は「幕府では二重谷村の検地で一割づっの延畝潮来地方の村むらと農民生活に定めているが、実際に二重谷村の土地をみれば三、四倍の延畝になっている」と延ぺている。さらに二重谷村の石盛(斗代)についてみよう。幕府が定めた二重谷村の石盛、つまり反当りの見積り収穫高は田方が上田壱石壱斗、中田九斗、下回七斗、下々田五斗、畠方が上畠八斗、中畠六斗、下畠四斗、下々畠は弐斗であった。}の数字は他の新田村と比較しても低く、明らかに水害を考慮した石盛といえる。第2章このように検地や年貢などで幕府の保護のもとに開発を進行させたこ重谷村は、潮来村の「八人頭」と呼ばれた村役人を中心に「二重谷村提」(後に二重谷条例と改正)を制定、開発地のすべてを全村民の共有地として、長期にわたり自治的運営を行なった特異な地域でもある。次に水戸藩領の延方村に所属する徳島新田について『国用秘録』の記載をみよう。まず、同書には「徳島新田は水腐の地也依而往古は半地詰也其後三ケ弐地詰ニなる地詰之事ハ末ニ記す」として、慶安二年(一六四九)より文化二年(一八O五)までの開発高を書きあげている。そして「〆高一五O九石二斗五升一合、うち田が一四七六石五斗四升六合で年貢は二割三分取り、畠が三二石七斗五合で年貢は一割五分取り。}れは徳島新田の検地帳写しであり、文化三年の改めでは下回が「一六四町六畝二分」と記している。さらに「この田方は水害が多くはじめは半地詰、その後は三分の二地詰になった。半地詰とは例えば田一反歩ある所は半分の五畝歩として、残りの五畝歩は稲を作らず空地にしておき、年々満水のときのごみ土置場とする。春にそれを剥、ぎ取って、作付けをする五畝歩の田に入れて肥料のたすけにする。三分の二地詰とは例えば田三反歩を開墾した所を二反歩に改め、残りの一反歩を空地にしておき、ここより泥土を剥ぎ取って二反歩の稲を植付ける田に入れてたすけにする。一反歩は稲を仕付けないので年貢は免除しておく。しかし、自分が徳島新田の田へ入って検見した事があるが、三分の二地詰の空地も次第に作付地になり、年々百姓の作徳になっている。新たに竿入れ(検地)をすれば徳島新田の石高は「二千四、五百石」にはなるであろう。つまり水害の多発する土地であるため竿先をゆるめて作徳のあるようにし、水害の補いにする。本郷、新田の百姓共に耕作しており、小百姓でも一軒につき玄米五O俵位ずつ作徳があって、363の