ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世)のような風儀の竿入れはないのでここに記内から年貢を納めている。364録しておく」(大意)としている。近領内各地を巡回している郡方役人の坂場流謙が「このような風儀の竿N入れはない」と書残すほど、水戸藩は徳島新田の検地について異例の保護策をとっている。以上、水害の多発する大洲・二重谷・徳島の新田開発に関係して、水戸藩や幕府のとった保護、援助策の一端をみた。幕府と水戸藩ではその内容にかなりの差がみられるが、共通点は頻発する水害を考慮した緩やかな検地と、低い年貢率であった。そしてこの保護策が、天保十一年(一八四O)幕府が利根川流域の水害を防止するため、寄洲の新田開発や霞菰の植出しを禁止するまで、三新田の開発高は増加を続けた。大洲村・二重谷村・徳島新田の歴史は水害との戦いともみられるが、反面、水害に対する領主の保護策が三新田の開発を促進した要因ともいえよう。