ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第三章港町の繁栄と推移第一節舟運の発達と港町の推移近世の日本では、幕府によって兵農分離が推し進められ近世の水運た結果、城下町に集住する領主とその家臣団及び商人職人、さらに領内の農山漁村に住む領民とに大別された。そして、農民は石高制の下で米年貢などの貢納を命じられた。年貢は村を単位として賦課され、徴収された各種の年貢は城下町などに集荷された。また、大名領主は江戸屋敷などを維持したり、領内における各種必需品を三都(江戸・京・大坂)から調達する必要があった。このため、領内はもとより三都と領国を結ぶ、物資輸送手段を整備する必要があった。こうした点では、幕府も大名とかわるところはなかった。このため近世初期から、幕府や領主によって沿岸海運や河川水運が、積極的に整備さ港町の繁栄と推移れたのである。しかし、わが国の河川水運や沿岸海運は、近世初期にはじめて形成されたのではない。むしろ、中世・戦国期に全国で発達した河川水運や沿岸海運を基礎とし、それに幕府や大名領主などが、湊の整備や舟運路の第3章新規開削を含む大規模な土木工事を施したことで、近世水運が形成されたのである。関東地方においても、平安末期から利根川下流域を中心とする広大な水域に水上交通が発達した。近世の潮来河岸も、中世の霞ヶ浦水運で栄えた津に発している。そして、天正十八年(一五九O)に徳川氏が江戸に入部し、さらに慶長五年三六OO)に幕府を聞くにおよんで、江戸を中心とした河川水運網やそれと結びつく沿岸海運が整備されていったのである。潮来地方を含む霞ヶ浦・北浦及び下利根川流域でも、徳川幕府による利根川の東遷事業によって、江戸と結ぶ内陸水路が確立し、常陸国の年貢米やさまざまな物資が、川船で江戸まで回漕されるようになった。また、仙台藩をはじめとする東北諸藩が、近世初期から江戸廻米などに「内川廻し」と呼ばれるルlトを採用したことから、}のルート上にある潮来河岸も繁栄したのである。また、東北諸藩が江戸廻米を房総半島沖を迂回するルlトに移行させた近世中期以降は、鹿島神宮や息栖神社などを参詣する、東国三社詣での遊覧客で潮来河岸も新たな繁栄を迎えた。現在の利根川下流及び霞ヶ浦・北浦は、近世の地誌など香取神宮と津と海夫の中では「信太流海」「榎浦流海」「佐我流海」「香取海」「印勝浦」「浪逆浦」などと呼ばれていた。しかし」こでは「流ずれの呼称も水域全体を呼び習わしたものではないので、かい海」としておく。流海は、現在の銚子河口で太平洋に連なった広大な内海を形成していた。それは、震ヶ浦、北浦、浪逆浦、利根川、印揺沼、365