ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近、W~ d e f Tベ,??一r旬、t伊手賀沼を含み、下総台地と稲敷・行方・鹿島台地の聞の広大な低湿地に広がる汽水域であったと考えられる。当時の潮来地方も、行方台地の崖線下の平地部分は流海の一部であったか、海辺の湿地帯であったと考えられる。流海沿岸には漁携を生業とする「海夫」がいて、「津」と呼ばれる港に集住していた(平成五年度千葉県立中央博物館特別展図録『香取の海ーその歴史と文化|』平成五年八月刊)。海夫は、遅くとも十二世紀後半からは香取神宮(千葉県佐原市)に属していたと言われる。香取神宮は、下総国一の宮として、東国鎮護の祭神として朝廷や藤原氏から厚い尊崇と保護を受けていた。また、平安末期には流海の周辺に神領を有し、々巴ふまざまな権益も認められていた。南北朝期の応安七年(一三七四)の「海夫ちゅうもん注文」に記載された海夫の分布する津は、鹿島神宮に近い大船津(鹿嶋市)など、広く流海全域に分布していた。それは、香取神宮が流海における水上交通の中心に位置し、航海安全の神として地域の信仰を集めていたためであった。津の数は下総国において二四か所、常陸国では五O第IV-35図二世安藤広重「利根川帰雁之図J(千葉県立中央博物館蔵)か所以上に及んでいる。それぞれの津には、その地366を支配する地頭がおり、海夫はその首領を通じて、流海で獲れた魚介類を供祭物料として香取神宮に貢進し、流海における漁猟や交通の特権を与えられていた(網野善彦「常陸・下総の海民」『日本中世の非農業民と天皇』)。潮来地方でも、現在の潮来市街に比定される「いたくの津」や「しまさきの津」(島崎)、「水はらの津」(水原)、「尾字の津」(大生)、「かまやの津」(釜谷)、「のふかたの津」(延方)などの名が見える。また、鎌倉時代の天福元年(一二三三)の古文しており、立網、引網をあっかう海夫は、香取神宮に奉仕するのと同じ書によれば、鹿島神宮の大宮司が立網、引網を支配ように、鹿島神宮にも奉仕していたと考えられる。中世流海の商業と交通海夫らは、やがて漁携から渡船や廻船などの水上輸送に進出し、商業にも従事するようにもなった。鎌倉末期のしやせきしゅう弘安六年(一二八三)に完成した仏教説話集『沙石集』には、「便船シタル法師ノ事」という挿話が載っている。若い法師(僧侶)が下総国のある渡し場で渡船に乗り込む際に「風早ノ唯蓮坊」と名かぎはやゆいれん乗ったところ、船頭から「風早」は暴風に通じ、「唯蓮」は「湯入レン(船に浸水することごと語巴が同じなので、ともに不吉であるとして、乗船を拒否された。また、法師が「賃(船賃)ニハ大豆ヲコポレ、一升モったという。チテ候ゾ」と言うと、船頭が「コポレ」は船が投れることに通じると嫌すでに船賃として}の挿話は、鎌倉末期の水郷地方では大豆などを支払えば誰でも船に乗れるほど、水運が一般的であったことを示唆している(『神栖町史上巻』)。