ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

また、中世には、流海の水上交通を背景にして、沿岸の各地に商業が発達した。例えば、一四世紀の前半には常陸同府(石岡市)に定期市が開かれ、鹿島神宮門前でも市が聞かれていた(佐々木銀弥「中世常陵の国府六斎市とその商業」『茨城県史研究』第一八号)。潮来市街にある長勝寺には、鎌倉末期の元徳二年(一三三O )に、下総国の豪族千葉氏の一族である木内胤長と鎌倉幕府の得宗北条高時が寄進した党鐘が伝来しているが、その銘文には、鎌倉末期の「いたく(潮来)の津」のありさまを「客船夜泊、常陸蘇城」と詠み、あたかも中国の港湾都市蘇州のように繁華であると讃えている。津すなわち交通の要地が、南北朝期には商業活動の場に発展したことをうかがわせる。このよλノな商業集落は、潮来のほかに、常陸府中、鹿島大船津、古渡津(江戸崎町)、佐原(千葉県佐原市)、神崎(同神崎町)などが知られており、流海の各地に生まれていたと思われる(小竹森淑江「中世香取海における津の支配海夫注文の分析から」『日本文化研究』第二号、小森正明「中世後期東国における蔵本について」『日本歴史』第五四二号)。また、文永九年(一二七二)、下総神崎関において、関手と呼ばれる通そうとうさん行料の徴収をめぐって、千葉氏の一族である千葉為胤と走湯山灯油料船の椅取の聞で争論が起こった。走湯山とは現在の伊豆山神社(静岡県熱海市)のことで、当時五O般あったと言われる走湯山灯油料船は、塩、港町の繁栄と推移酢など生活必需品の遠隔地交易を行い、その利益の一部を走湯山に灯油料として寄進していた。その一方で走湯山の宗教的権威の庇護を受けていたと考えられる。)のとき灯油料船の梶取は、治承五年(二八一)に源頼朝から津、泊、関の通行権を与えられているとして、関手(通行料)第3章を支払うことを拒否した。」れに対して、為胤は関手徴収を認められた下文を与えられていると鎌倉府に訴えた。しかし為胤側が証拠となる下文を提出することが出来なかったため、走湯山側の特権が認められ、神崎関では常陸川を航行するすべての船から関手を徴収することを禁じられたと言われる(盛本昌広「走湯山灯油料船と神崎関」『千葉史学』第二二号)。この争論は流海に注ぐいわゆる「常陸川」(現在の利根川下流)に川の関所が設けられ、関手が徴収されていたことを示すとともに、川闘が設けられるほどに、当時の水運が発達していたことを物語っている。商業の発展と商船の活動は、海賊をも出没させている。常陸大嫁氏の系譜に連なる鳥名木家に伝わる古文書によれば、永享年間三四二九1四O)に稲敷郡西部から新治郡南部にまたがる信太庄という荘園の商船に対して海賊行為を行う者が出没したという。」のため鎌倉府は、鳥名木国義に対して、信太庄の惣政所である土岐修理亮景秀と連絡をとりあって取り締まるように命じている。天正十八年(一五九O)、豊臣氏が北条氏を小田原城に佐竹氏の南郡支配と潮来滅ぼすと、翌年にかけて佐竹氏は常陸国南部に侵入し、水戸・常陸国府をはじめ、鹿行二郡にまで版図を拡大した。そして、島崎城に拠りつつ潮来地方を支配した大援氏系の豪族島崎氏も滅亡した。島崎氏の滅亡後、佐竹義宣は島崎城付近に夜越川を自然の外堀とする堀之内大台城(牛堀町)を築くとともに、行方郡一帯に譜代重臣を配置し、蔵入地を設定している(牛堀町教育委員会編『堀之内大台城』)。このように佐竹氏が潮来周辺を重視した背景には、霞ヶ浦と北浦に挟まれた行方郡の水運を掌握する必要があったためと見られている(山口啓二「豊臣政権の成立と領主経済の構造」『日本経済史大系』)。同じ天正十八年、徳川氏が堀之内大台城と流海を挟んで対峠する岩ヶ崎城(千葉県佐原市)に譜代重臣の鳥居元忠を配置し、代官吉田佐太郎に新島領の掌握に努めさせたのも、行方郡南部の交通立地や戦略的価値を認めてい367