ブックタイトル潮来町史

ページ
380/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている380ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

世たためと言われる。そのため、慶長七年三六O二)に佐竹氏を秋田に移封した後、おそくも慶長十四年までには潮来領を水戸藩に与えている。近そのことは、同じ年に東北諸藩を動員して実施した銚子川口の土木工事IVとも関連していたといわれる。こうして、戦国末期から近世初期の潮来は、流海の水上交通と東廻航路の重要拠点として、軍事政治的に重要な位置を占めるようになったのである。幕府の利根川東遷事業近世以前の利根川は、現在の埼玉県北部から東部にかけてさまざまに流路を変更しつつ、江戸湾に注いでいた。現在の利根川下流に相当する部分について、今日では「常陸川」と呼ばれているが、この常陸川と利根川を新たな水路の開削によって連絡させ、江戸と関東各地及び東北地方を水運で結びつけようとしたのが、徳川幕府による一連の利根川東遷事業であった(建設省関東地方建設局『利根川百年史』)。天正十八年(一五九O )、江戸に入った徳川氏は、その四年後の文禄三あい年(一五九四)に、早くも「会の川」の締切工事に着手している。「会の川」とは当時の利綴川本流でありこれを現在の埼玉県羽生市付近で締め切り、要橋方面に東流させる工事に着手した。}れが一連の利根川東遷事業の始まりと言われている。」れ以降、幕府は元和七年(一六一)に「新川通」と「赤堀川」を開削し、ついで関宿南方から北上して常陸川に通じる「逆川」を開削し)こに利根川と流海が連絡したのである。「会の川」の締切工事に着手した文禄三年(一五九四)に、徳川家康のかじろ属僚である松平家忠が、武州忍(埼玉県行田市)から下総国香取郡上代(千葉県東庄町)に移封され、}の聞を川舟で移動している。家忠の遣した日記には「二月十九日忍之城わたし候て、新郷より舟にて出候」と368あり、同年二月十九日に忍城下を出発していることがわかる(「家忠日記」『増補続史料大成第十九巻』)。松平家忠は、弘治元年(一五五五)、三河国額田郡深溝を本領とする深溝松平家の四代目に生まれた。天正三年から、徳川家康の征戦に加わり、家忠とその家中は普請巧者として知られ、浜松城や高天神城などの築城を行った。天正十八年、家康が関東に移封されると、家忠は武州忍において一万石を賜っている。忍城を明け渡した家忠主従は、城外の新郷で川船に乗り、翌日は「矢はぎ」まで到達している。また、翌々日には「かないと」まで、二十二日には「小海川」を経て上代に到着している。在の岩井市矢作地区をさすものと考えられている。また、「かないと」}こで、「矢はぎ」は現は河内村の金江津地区と、「小海川」は千葉県小見川町の小見川と見られる。このことが、利根川東遷事業を開始する以前の時点で、すでに利根川と常陸川とが連絡していたとする説の有力な根拠となっているのである(小笠原長和『中世一房総の政治と文化』)。また、最近では、利根川と常陸川とは古くから連絡していたばかりでなく、中世関東と東北日本を結ぶ重要な輸送路であったと評価するものもある(市村高男「中世東国における房総の位置」『千葉史学』第二一号〉。また、家忠は上代から江戸へ兵根米をたびたび輸送しているが、中でも文禄三年三月十四日条には「江戸へ兵椴出し候、手舟」とあり、わぎわざ「手舟」と記していることから、当時は一般に雇い船で兵椴米を運んでいたことがわかる。また、三月二十三日条では「鹿嶋へ参詣、小見川より舟にて」ともあり、家忠自身が軽舟を駆って鹿島参詣を行っていることもわかる。}のように、戦国期においても、流海の水運は人や物