ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
資の輸送に活躍していたのである。ところで、一連の利根川東遷事業の目的は、}れまでは江戸を水害から守り、併せて奥羽諸大名の反乱に対する防衛線を確保することにあるこの説を提唱したのは、明治後期の歴史地理学者吉田東とされてきた。伍(一八六四i一九一八)であった。吉田の主張は、日露戦後経営をめぐる議論の中で、治水事業の必要性を強調するものとして歓迎されたが、その背景には明治四十三年(一九一O)の利根川水系における未曾有の大水害の苦い教訓があった。しかし、最近では河道の発掘調査や文献調査に加え、中世から戦国期の水運がその歴史的意義を高く評価されるようになり、下利根川方面と江戸を結ぶ舟運路の開発という視点から幕府の河川改修事業を見直す動きが活発になっている。なお、幕府は、利根川と常陸川を結び付けたのにとどまらず、鬼怒川や小貝川の流路改変も行った。寛永六年(一六二九)、幕府は細代(谷和原村)から南西の大木(守谷町)までの台地に水路を開削し、鬼怒川を最短距離で利根川に合流させた。さらに、承応三年(一六五四)に赤堀川が拡幅されたことで、常陸川の通水量が増加し、川舟の航行がいっそう容易になったのである。近世潮来河岸の繁栄について説明する前に、東廻り港町の繁栄と推移東廻り海運と潮来をめぐる研究これまでどのよ海運と潮来河岸の関わりについて、うな研究が行われてきたのか、簡単に紹介しておぅ。東廻り航路は、東北地方と江戸を結ぶ航路のことで、下関経由で日本海沿岸と江戸・大坂を結ぶ西廻り航路とともに、近世日本における最も重要な物資輸送路であった。とくに、東廻り航路は巨大都市江戸に米第3章穀、木材、海産物など東北地方の物産を供給する役割を果たすとともに、東北諸藩の物資調達とも結びつく点で重要な役割を担っていた。わが国の海運史の体系的研究を行った古田良一氏は、その著書『日本海運史概説』の中で、東廻り海運は最初は那岡湊(ひたちなか市)で止まっていたが、航海技術の向上によって銚子まで到達したと述べた。そして、東廻り海運が房総半島を迂回して海路を江戸に直航するようになるのは、正保期から寛文期(一六四四i七二)に至る間であったとしている。では、那岡湊または銚子まで到達した廻船の積荷は、どのようにして江戸まで運ばれたのであろうか。古田氏によれば、那珂湊からは鹿島郡を縦貫する飯沼街道を経由して銚子まで運ばれ、そこからは水運または陸連を利用して、江戸まで廻漕されたという。古田説によれば、航海技術が向上するにつれて、鹿島灘や房総沖の難所を克服できるようになったとされ、廻船の終着点が那珂湊、銚子としだいに南下し、やがて房総半島を迂回することができるようになったとされるのである。」の学説は東廻り海運の発達と、近世初期の利根川水運の形成とが深く結びついていると結論づけた点で、重要な研究成果をもたらした。しかし、今日では新たな史料の発見と相まって、古田説を再検討する動きが活発に行われている。しかも}の動きと関連して、近世における潮来河岸の役割が再び高く評価されつつあるのである。渡辺信夫氏は『幕藩制確立期の商品流通』の中で、東廻り海運は全国流通の形成に対応して寛文期に確立したのではなく、大坂の障や江戸屋敷への物資輸送など軍事的な輸送需要から形成されたものであったと古田説を批判し、また仙台藩、津軽藩をはじめとする東北諸藩が潮来に蔵屋敷を設けたことに注目し、潮来河岸が東北諸藩の江戸廻米の重要な中継点となったと指摘している。わが国の河川水運史研究に大きな成果をもたらした川名登氏は、『河岸に生きる人々|利根川水運の社会史|』の中で、近世利根川水運と東369