ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世近N廻り海運の関係を再検討し、まず廻船により江戸直航ル1トが存在したと想定した。そして、幕府や東北諸藩がより安全で効率的な輸送路を求めたことで、まず銚子から利根川水運を利用するルlトが採用され、いで那珂湊からいわゆる「内川廻しルlト」が考えられたと結論づけた。ここでは、輸送の安全と効率という視点から古田説を批判し、東廻り海運を房総沖迂回コlス、銚子廻着、那珂湊廻着としだいに北上させている。そして、慶長十四年三六O九)に幕府が東北諸藩を動員して行った近世初期水運関係図第IV-36図川名氏は、江戸廻米を積んだ廻船は、より安全な航路を求めて、大規模な土木工事は、銚子に避難港を築港するものであったとしている。はじめは銚子河口から潮来まで利根川を遡航し、そこで川船に積み替えていた370と指摘している。そして、下利根川付近の村むらで川船が増加し、銚子湊でも川船を容易に調達できるようになると、諸藩の蔵屋敷はしだいに銚子湊に移っていったと指摘した。つまり、東北諸藩が潮来に蔵屋敷を設置したのは、川船を調達しやすいという理由からであったと指摘しているのである。渡辺信夫氏の研究成果を採り入れつつも、潮来に東廻海運の廻船が廻着したことを指摘した川名氏の研究は、それまで近世中後期に栄えた、歓楽地としてのみ理解されてきた潮来河岸を、再評価した重要な指摘であった。これに対して、渡辺英夫氏も「東廻海運の初期段階|常陸国潮来を中心に|」(羽下徳彦編『北日本中世史の研究』)において初期の東廻り海運の廻船が、霞ヶ浦の南端潮来の地まで廻航し、そこで利根川筋の川船に接続していたことを指摘しつつ、}れまでの諸研究が依拠している古田説、すなわち初期東廻り海運が那珂湊までしか到達できなかったとする説を批判しいわゆる「大廻し」による廻船の江戸直航が近世初期から行われていた事例を紹介している。また、江戸直航ル1トと潮来廻着や内川廻しル1トが併存していた理由として、江戸直航は安全性・信頼性と効率性の点で軍需輸送に最適とはいえず、潮来廻着や内川廻しの方がよりてコ適切な廻漕方法であったとしている。また、渡辺氏は、潮来は天正期(一五七三i九一)に常陸国南部に侵入した佐竹義宣が、島崎城や行方郡に譜代層を配置したことや、徳川氏が譜代の鳥居元忠や代官吉田佐太郎を下総側に配して対抗したり、のちに水戸藩に潮来領を与えたことは、いずれも潮来が流海の水上交通や東北日本と関東を結ぶ海上交通の重要拠点であるとの認識にたっ行為であったと指摘している(渡辺英夫「東廻海運の展開常陸国潮来をめぐって」柚