ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

木学編『江戸・上方間海上交通史の研究』)。このように、近世における利根川水運と東廻海運の成り立ちを関連づけて理解しようという最近の水運史・海運史研究によって、水郷潮来の歴史的イメージは大きく変わろうとしているのである。江戸廻米と潮来潮来は東北諸藩の江戸廻米を中心とした東廻海運の重要な拠点として、戦国末期から近世初期になると、新たな繁栄を迎えるようになった。東北諸藩の江戸廻米は慶長期(一五九六1一六一四)から行われていたが、それが本格化するのは寛永期(一六二四1四一二)以降のことである。それは、江戸屋敷の維持や大坂の陣など軍事的な事情に加えて、寛永十二年(一六三五)に改訂された武家諸法度で諸大名の参勤交代が制度化され、江戸での米穀需要が急増したためである。東北諸藩の江戸廻米を積んだ廻船にとって、好天に恵まれれば、房総半島を迂回し、浦賀水道から江戸に到達する「大廻し」が最も有利な航路であった。しかし、荒天による海難の恐れや帆走のための風待ちも多く、江戸までの輸送条件(請負船、藩手船、賃積船の別や輸送期限など)やそのときどきの気象条件によって、那珂湊から「内川廻し」ル1トを選ぶか、鹿島灘を横断し銚子河口から利根川を遡航して潮来で川船に積み替える、または「大廻し」ルlトを直航するか、経路を選択しなけれ港町の繁栄と推移ばならなかった。この中で、「内川廻し」ルlトは最も安全で確実な経路であったが、潤沼南岸から霞ヶ浦・北浦沿岸まで何らかの陸送部分を含まざるをえず、三つのルlトの中では最も効率的ではなかった。内川廻しル!トとは、第3章那珂湊から潤沼に入り、澗沼南岸の宮ヶ崎(茨城町)や海老沢(同)、網掛(同)から霞ヶ浦沿岸の小川(小川町)や巴川沿いの塔ヶ崎(鉾田町)や紅葉(同)までを陸送し、ふたたび川船に積み替えて北浦から利根川を経て、江戸まで回漕するとい・フルートであった。このル1トには、古くは元和年間(一六一五i一一三)に小川に水戸藩の御殿が置かれていたが、東北諸藩にとって、江戸廻米が臨時、軍事的な必要によるものから藩財政に密着した恒常的なものとなるにつれて、より効率的な物資廻漕を行えるルlトの開発や重要な課題となった。そのため、元和八年三六二二)に上総佐貫(千葉県富津市)から磐城平(福島県いわき市)に入部した内藤家では、慶安四年(一六五一)、藩士今村仁兵衛に命じて水戸藩領内を探索させ、巴川中流の下吉影(小川町)から北浦河口の串挽(鉾田町)までの舟運路を聞いた(『水戸市史オ工中巻H』)。によって、それまでの内川廻しル1トの陸送部分をほぼ半減させることに成功したのである。水戸藩は、覧永年間(一六二四1四三)には小川から霞ヶ浦経由で江戸廻漕を行っていたが、今村による巴川ルートが開拓されると、自藩の物資廻漕に利用しているし、さらに明暦元年(一六五五)には海老沢に津役所を設置して、)のルlトを利用する東北諸藩や商人の江戸上り荷に津役銭を課し、多大な収益をあげている(『小川町史上巻』)。また、小川におかれた御殿は、のちに運送方役所となっている。さらに、残された陸送部分である澗沼・巴川・北浦聞を結ぶ内陸運河を開削するという計画が、近世を通じて、たびたび持ち上がっている。最初の計画は、寛文七年(一六六七)に江戸の町人花島屋八代三郎右衛門らが水戸藩に出願したもので、澗沼に注ぐ小鶴川と巴川を結ぶ運河を掘るというものであったが、幕府の許可を得られず不調に終わった(『水戸市史中巻口』)。その後もたびたび同様の出願が水戸藩に寄せられたが、最も有名なものは、宝永三年(一七O六)に水戸藩が起こした藩営工事で371