ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世あった。水戸藩の「宝永の新法」と呼ばれる改革の中心人物である松波勘十郎は、潤沼・巴川間に運河を開削するとともに、大貫・酒沼間にも近運河を開削し、海上から直接潤沼に乗り入れることがでさることを企図Wした。しかし、前者は水位の関係で運河としては十分に機能せず、や;6~て放棄されてしまった。また、後者も堆積作用で大貫の新川河口が流砂に埋まってしまい、松波の獄死もあずかつてこの計画は失敗に終わった。一方、承応三年(一六五回)に幕府は利根川の東遷事業を完成させている。それ以前にも流海と利根川・江戸川水系とは通水しており、川船で直航することは可能であったとする説と、承応三年以前は通水しておらず、江戸廻米のルlトは現在の中利根川・江戸川聞の陸送部分を含んでいたとする説がある。前者が根拠とするのは、松平家忠の武蔵忍城下から下総上代までの軍旅である。}の軍旅をすべて舟行によるものと理解し、文禄期(一五九二i九五)あるいは近世以前において、両水系は通水していたと解釈している。これに対して、川名登氏は、寛永期には両水系は通水しておらず、常陸圏内に内川廻しルlトがひらかれでも、下総国北西部のどこかで江戸川筋への陸路を用いねばならなかったことから、東北諸藩の期待に十分には応えられなかったと評価している(川名登『河岸に生きる人々』)。その場合、内川廻しルlトや潮来から出発した川船は、常陸川上流右岸のいずれかに着岸して荷物を陸揚げし、江戸川筋まで陸路を駄送されたと考えられる。近世中期以降も、鮮魚などの船積荷物が利根川沿いの布施河sebmwAリ'ν岸(千葉県相市)、布佐村(同我孫子市)、木下河岸(同印西町)などで陸揚いわゆる鮮魚街道を経て、江戸川沿いの加村河岸(千葉県流山げされ、市)、松戸河岸(同松戸市)、行徳河岸(岡市川市)などへ駄送されたことから推測すると、一ニヶ尾沼(同野田市)や手賀沼の最奥部(同柏市)などに着岸し、そこから駄送したものと考えられる。なお、手賀沼最奥部の戸372張河岸(千葉県柏市)には、近世初期から仙台船などが着岸し、港として栄えたが、寛文三年以降は衰退したとの伝承があり、宝暦年間(一七五その由緒により河岸の再興を出願する者も現れている一i六一二)には、(『柏市史近世編』)。そのため、覧永八年(一六三一)春、幕府が常陸川と江戸川を結ぶ運河の開削を計画し、二代将軍徳川秀忠が阿部正之に「下総小金の野山に掘割、下総、常陸、下野、陸奥より運漕の水路を聞くぺし」と命じたという『徳川実紀』の記事が重要な意味を持つのであるが、}の計画は秀忠の死去によって中止されたという。この間、仙台藩は慶長十一年三六O六)に竜ヶ崎に江戸賄料一万石をあたえられているが、それ以来、内川廻しルlトの利用価値を認めていたといわれる(『茨城県史近世編』)。仙台藩は、元和九年(一六二三)に平この地に仙台陣屋を置き、那岡湊の梅原藤七を潟築港に援助を与えて、穀宿に指定した。また、承応二年(一六五三)には潮来に蔵屋敷を設置しfここれは、翌年に利根川東遷工事が完成することを見越したものと見られる。また、会津藩、南部藩、津軽藩も前後して潮来に米蔵を建てている(『茨城県史近世編』)。会津藩の場合、江戸廻米を領内から黒羽(栃木県黒羽町)まで陸送し、そこからは那珂川水運を利用して澗沼まで廻漕しているのである。常陸国新治郡高浜河岸(石岡市)も、近世霞ヶ浦水運の重板久船要な河岸の一つであった。そもそも高浜河岸は室町期には国府の外港としての活動が確認されている。元和九年(一六二三)、下野の豪族皆川氏は常陸府中に所領を与えられるが、府中に配置された家臣(代官)たちは、周辺村々を併せた府中領から年貢米を