ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
徴収し、江戸への輸送を手配した。その際に用いられたのは霞ヶ浦の川船、とりわけ潮来船であった。寛永九年(一六三二)十月、高浜村の喜三郎と「板久村船頭甚蔵」が、皆川氏の代官山口新兵衛と屋口平右衛門の取り扱う「種借米」の利息米一三俵を江戸に運んでいる。また、十二月には「板久宮本甚兵衛」の船も「種借米」一二O俵を江戸に運んでいる。前後の史料によれば、江戸までの運賃は六分(米百俵につき六俵)であったと見られる。ここで、「板久」とは「潮来」のことで、「甚蔵」「宮本甚兵衛」は船頭や船主と考えられる。特に、「宮本甚兵衛」はのちに文人宮本茶村を輩出する宮本家と何らかの関連があるものと考えられる。「家忠日記」の中で、松平家忠も兵糧の運搬のために雇船を調達しているが、近世初期には、さまざまな領主の輸送需要に応えて、活躍する流海とくに潮来地方の川船が存在したことがわかる。東北諸藩が近世初期に潮来に廻米蔵を設置して棒役人を置く背景には、甚蔵船や宮本甚兵衛船のような川船が潮来に幅鞍しており、川船の調達が容易であったためと考えられるのである(「石岡市史下巻』)。冗禄期以降、東北諸藩の江戸廻米が銚子湊から海路をと水郷遊覧と潮来地方るようになると、潮来の賑わいにもかげりが見えるようになるが、その潮来を再び繁栄へと導いたのは、水郷遊港町の繁栄と推移覧の流行であった。近世中期になると、江戸の文人や関東各地の庶民のあいだで水郷一帯を遊覧することが流行した。なかでも、鹿島神宮、香いきすもう取神宮、息栖神社を参拝することが三社詣でとして特に流行した。三社きおろし包やぷねへの参詣客を含む水郷遊覧客は、木下茶船など利根川や霞ヶ浦の川船を第3章利用し、その途中で史跡にも恵まれ、歓楽地としても知られた潮来にあがる者は多かった。木下茶船は、木下河岸から出る水郷遊覧船、乗合船の木下河岸と木下茶船の成立}とで、江戸からの遊覧客や文人の多くはこれを利用した。「茶船」とは川船の船型のひとつで、八人から十二人乗りの小型船で、木下茶船の多くは、出発地の木下河岸で差配された貸切り遊覧船であった。木下河岸(千葉県印西町)は下総国印施郡竹袋村の河岸場で、あかまっそうたんずし医師赤松宗日一が著わした『利根川図志』布川のも「今木下といふ名高き所、下利根川の岸にあり。是は竹袋より利根に木を下すの名なり」とあるように、周辺の山林からの竹木や薪炭を利根川に搬出したことから、その名が付いたといわれる。木下の地が河岸として成立したのは寛永年間(一六二四i四一二)といわれ、もとは渡し場であったが、渡守に旅人の世話をさせたことから、河岸場となったと伝えられる(『印西町史史料集近世編1』)。明暦年間(一六五五1五七)からは河岸場年貢を時の領主に上納し、奥州や水戸、鹿島、銚子と江戸を往来する旅人や荷物を取り扱うようになったという。また、木下茶船について、『利根川図志』は「古わずかこの地携に十軒ばかりなりしが、寛文のころ、此処に旅客の行舟を設けたるに因りて、甚だ繁栄の地と為れり、それは鹿島・香取・患栖の三社に詣し、及び銚子浦に遊覧する人多かればなり。問屋七郎左衛門この番船を預り、旅人の煩労をたすく」と記しているように、寛文年間(一六六一i七二)からは、河岸問屋七郎左衛門家の先祖惣兵衛が、問屋場を取り立て、幕府代官伊奈半十郎に永二貫文ずつ上納している(『千葉県史料近世編下総国下』)。また延宝五年(一六七七)に起こった次の事件によって、木下河岸と水郷方面を往来する「行舟」のようすが明らかになる。延宝五年十一月、鹿島郡溝口村(神栖町)の弥兵衛という人物が、木下373