ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

七八)一月に、江戸に通船している商船を統制する目的で極印改めを請宿(千葉県船橋市)や臼井宿(同佐倉市戸)とな成ど田江を結ぶ成田街道の時に川船年貢・役銀も徴収された。幕府の川船役所は、延宝六年(一六ー一七O三)から成田山信仰が盛んになり、船橋印改めとは船体に川船役所が施す焼印のことで、同水郷各地の遊覧船ではない。江戸庶民の間では、冗禄期(一六八八木下茶船の発展あ改らた」めを受けた八人乗りの茶船四般が置かれた。極水郷に遊覧客を送り込んだのは、木下茶船ばかりこの事件の翌年木「下河岸に幕府川船役所の「極印ごくいんO般、一日平均で一二般であった(印『西町史史料集近世篇I』)。物を積み下ろしていた。三八一二般、寛政元年(一七八九)がO四二般九を数え、年平均で四三五布佐村でもこのころから無宿の船頭を雇い、木下河岸より安く旅人や荷綬、天明元年(一七八一)三Oが三四般、同四年が三八六二般、同七年が往来する旅人が利用していたことを示している。また、木下河岸に近い安永七年(一七七八)頃の木下河岸から出船数は、安永七年が四七六九河岸と水郷地方を往来する船稼ぎの者があり、潮来や水郷各地と江戸を木下河岸から各地への船賃である。この事件は、近世前期の延宝年間にはすでに船頭伝三郎のように木下せず、五人連れ以上の遊覧客が集まると逐次出船させた。表WlMは、「日締帳」をつけるようになった。遊覧船で、木下河岸の河岸問屋では、竹袋村の茶船と他村の河船と区別また、この事件を契機に、河岸問屋では、船頭、乗客の名簿にあたる茶船の多くは八人乗りで、四人乗りの小船もあった。茶船は貸切りのわかり、木下河岸へ回漕したところを捕らえられ、伝三郎は処刑された。(一七一一i一五)には茶船二はO般に増加した。したところ、津宮河岸(千葉県佐原市)の船三頭郎伝が犯人であることが元禄元年(一六八八)には河岸問屋が十四般の小船を建造し、正徳年間発見した。木下河岸の問屋手代平兵衛が潮来の遊廓をはじめ諸方を探索けるよう触書を発している(丹治健蔵関『東河川水遂史の研』究)。ついで、に嫁いでいる娘が川へ洗濯に出たところ、弥兵衛の遺体が流れ着くのをの後、行方知れずとなった。翌年正月、下総国小見川(千葉県小見川町)彼らは潮来で下船し、そ第IV-24表IV近世寛政4年木下河岸からの船賃一覧行き先船賃(文)備考佐原麻生鹿嶋小見川銚子茶船小船茶船小船茶船小船茶船小船茶船小船700 8人乗り400 4人乗り750 8人乗り424 4人乗り800 8人乗り450 4人乗り800 8人乗り450 4人乗り1300 8人乗り800 4人乗り出典「諸魯附類弁旧記瞥抜仁之巻十九潮来の者も乗船したが、番Jcr印西町史同じく新宮村(麻生町)や両余を持ち帰るところで、主で、江戸から代金三十史料集近世編!J)起きた。弥兵衛は鮮魚荷不明になるという事件が第IV-25表天保3年滑川河岸の船賃一覧行き先船賃備考潮来180文鹿島・息栖228文小見川248文笹)11272文銀t子384文三社廻りl貰30文三社銚子450文牛堀172文Sヰ回372文土i浦448文安食82文藤蔵河岸112文木下114文布佐・布川150文阿波・神崎両社参詣は20文増し下総国印施郡安食(千葉県栄町)大堀200文小堀(取手市)か取手250文布瀬272文布施(柏市)か出典「天保十三年一月(舟賃値上げにつき一札)Jcr下総町史近世編史料集IlJ河岸から船に乗り、行方374