ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世動きを抑制するねらいがあった。しかし、津宮河岸は村請河岸であるため、船宿側でも村民の支持を得る必要があった。このため、船問屋会所近の収益で御用人馬継ぎ立てや勧化・奉加など村入用の一部を負担したり、W河岸に出入りする川船と結んだ「後暗き取計」を取りやめるなど、の譲歩を余儀なくされているのである。ところで、潮来河岸は水郷遊覧地や歓楽地としても知られていることから、木下茶船をはじめ水郷遊覧客を乗せた遊覧船が盛んに着岸し、常陸利根川や前川を経て牛堀や延方、大船津方面へ往来した。しかし、潮来町内にはその具体像を一不す史料は乏しい。ご」にあげた津宮河岸の船問屋会所のありかたを参考に、今後とも近世潮来における川船統制、りわけ遊覧船管理のありかたを解明してゆく必要がある。木下茶船をはじめとする水郷の遊覧船の多くは、水郷潮来船の活躍の村むら、とくに下利根川流域の村むらの川船であった。そして、それは日ごろ耕作船や漁船として農民が使用している小船が、農間余業として参加したのであった(川名登『河岸に生きる人々』)。例えば、津宮河岸では、出入りする川船の多くが農間余業の川船であるため、田植えの時期には船稼ぎの者が少なかったといわれる。また、木下河岸では、水郷遊覧の川船を河岸問屋七郎左衛門家が差配し、遊覧客を乗船させ、逐次出船させていたが、茶船稼ぎは、実際には竹袋村の一四般の茶船や七般の小船だけでは対応しきれず、水郷地方の村々から寄り集まる川船を受け入れていた。その出船地は下利根川の佐原、銚子周辺の西浦(霞ヶ浦)や北浦沿岸の二二Oか村に及んだ。これらを、木下河岸では「旅船」と称し、四人乗りの小船扱いで乗客を乗り込ませる取り決めになっていて、三社参詣客も村持ちの茶船十四般の順番に差し障りがなければ、旅船に乗船させていた。文化十一年(一八一四)、木下河岸と鹿島郡平泉村(神栖町)ほか四か村376との間に、川船の出船のしかたをめぐって争論が起きたが、}のことは鹿島郡の川船が頻繁に木下河岸に出入りしていることを示している。潮定来地方の川船も木下河岸に寄港し、水郷遊覧客などを運んでいた。当時のさまざまな争論の中に、水郷各地に進出するかれらの姿を垣間みることができる。天明五年(一七八五)七月、木下河岸に近い布佐村(千葉県我孫子市)から、鮮魚荷物の宰領以外の旅人を乗せた川船を出船させようとして、木下河岸の番舟に捕えられるという事件が発生した。}のとき、布佐村かとら旅人九人を乗せたのは延方村の市重郎という船頭で、白浜村の船頭重五郎の世話で布佐村の商人に雇われたものであった。また、天保元年(一八三一O )には、布施村(千葉県柏市)から延方村の彦八が所有する川船が、三社詣での旅人を乗せたとして木下河岸から訴えられるという事件が起きている。天保元年三月五日、野州足利郡上高野村の次部兵衛らは、三社参詣のため、布施河岸の渡船場から彦八船に乗船した。船頭は延方村の伴次という者で、木下河岸を通過しようとしたが、見答められ、幕府勘定所に訴えられた。そもそも布施河岸は「往還河岸」と唱え、銚子方面からの船積み荷物を陸揚げし、江戸川沿いの松戸河岸、加村河岸(千葉県流山市)へ駄送することを幕府から公認されていたが、木下河岸が独占する水郷遊覧客の取り扱いは許されていなかった。しかし、木下河岸へ寄り集まる水郷地方の小船にとって、川船稼ぎは貴重な農間余業であり、より有利な条件で集客できる河岸へ移動するものもあった。これらの事件は、潮来地方の小船が活発に木下河岸や利根川流域で川船移ぎを行っていたことを物語っている。