ブックタイトル潮来町史

ページ
389/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている389ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

水郷遊覧が盛んに行われるようになると、潮来は歓楽地潮来遊里と江戸文学として、また長勝寺や小里姫の塚の史跡名勝で有名になり、庶民文学も登場するようになった。なかでも潮来遊里と但謡「潮来節」に題材をとったものが多い。有名な「潮来出島の真菰の中にあやめ咲くとはしをらしゃ」の文句は潮来節の原歌である治宝この潮来節とは近世中期に潮来地方に起こった僅謡で、明和八年(一七七一)頃に江戸でも流行している(『日本文学大辞典第一巻』)。二上りを基調とし、遊里の戯歌であることから、七七七五調の歌詞の多くは情歌であった。江戸でも流行とともに替歌も多くなり、「五色潮来」「三下り潮来」等もできた。潮来に関する庶民文学には、この潮来節と遊里の情趣をモチーフとするものが多かった。かざん潮来遊里については、渡辺峯山が貴重なスケッチを遺している。渡辺感十山は三河田原藩士で、名を定静、(子を子安または登といい、儒学を佐藤一斎に学び、絵を谷文晃に学び、南画家としても知られる。彼は、文政八年(一八二五)に水郷各地に遊び、知友を訪ねているが、この時のようすを記した紀行文が『万禰川波記』であり、各地の風景をおさめた素描集に『四州真景』がある。『真景』の中には、潮来遊里のようすを淡彩で描いた一葉があり、本書口絵に掲げた。画面中央には黒木の木戸があり、その後方には「隠屋会所」と記された遊里の会所や蓬茶屋、松本港町の繁栄と推移屋、河内屋、庫太屋などの遊廓が描かれ、二階には遊女らしき人影も見える。一方、文化三年(一八O六)には式亭三馬が酒落本『潮来婦志』前後編を完成させている。三馬は}の年三月に火災で江戸の家を焼かれ、第3章「柳斎主人」なる人物の招きで佐原に逗留し、香取神宮に詣で、帰路の一日を潮来に遊んだ。本書は、そのときの見聞をもとに書かれた酒落本で、潮来節を取り入れ、方言と江戸弁の食い違いや遊里の人情や習慣をユーモラスに描いている。翌年には村田了阿が『潮来考』を著わし、その中に「潮来風」と題して潮来節三百余首が収集されている。また「笑本板古猫」と題して潮来節二三十余首を集めたものも刊行された。寛政五年(一七九三)には、潮来にちなむ俳譜集で一草編『潮来集』が刊行された。ついで、寛政十二年には霊平翁斎が酒落本『いたこ雷』を著し、享和二年(一八O二)には富士唐麻呂(藤堂良道)が地誌『潮来絶句』を著わした。同書には葛飾北斎が挿絵を描いている。天保十年(一八三九)には、藤堂良道が漢詩文集『潮来集並梅花詩稿』を著わし、一峯編『潮来図誌』も刊行された。『潮来図誌』は、潮来に関する多くの詩文を集大成した文学遺跡誌とも言うべきもので、まず潮来全景図を示し、潮来の地誌を述べ、長勝寺の鐙銘を紹介している。ついで潮来に関連のある漢詩、和歌、俳請を撰んで掲載している。また、上演年代は不明ながら、『板子ふし新町文作』と題する芝居台本も今日に伝わっている。これらの潮来に取材した著作の中でも、談洲楼駕馬作『忠孝潮来府志』は、特に有名であった。}の物語は水郷地方の戦国動乱に取材した娯楽小説であるが、文化六年(一八O九)に江戸で刊行されて好評を博した。また、大坂でも「けいせい潮来調」として上演された。題名は潮来節のもじりで、物語は遊里に身を沈めた戦国大名土岐氏の姫君を助け、主家再興を図る家臣たちの活躍を描いたもので、遊廓物や仇討物など類似の作品の名場面を組み直したものと言われているが、遊里の情趣を全面に押し出し、作者自身も序文の中で、水郷遊覧で潮来に逗留したおり、一夜当地の船頭が物語りするのを書き留めたものと語るなど、読者に水郷遊覧を誘うような内容になっている(大久保錦一編『潮来遊里史と潮来図377