ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二節地形・地質とその成り立ち今から十数万年前、現在の関東平野には、古東京湾とよばれる浅い海が広がっていた。潮来もその大きな湾の出口に近い東方に位置する海底にあったのである。海底には河川の流入などにより、土砂が厚く厚く堆積していき場所によってはその厚さが一000メートルにも及んだ所もある。やがてその海底が隆起して陸化し、関東平野が出現した。河川の流入や海水の進退等により、もとはひと続きの海岸平野も削られていくつかの台地に分かれていった。そして行方台地、鹿島台地、稲敷台地、下総台地が形成され、}れらの台地は「洪積台地」とよばれている。現在れらの台地の露出した地層には貝化石が見られ、堆積した当時そこが海であったことを物語っている。台地の地層は比較的厚い砂層、それよりうすい泥層や喋層からできて、・3OLed -この時代には火山活動が活発で、富士山、箱根山などの火山灰が潮来町の大地と気象潮来あたりに降り積もっていった。降灰は陸地化されてからも続き、現在数メートルの厚さの関東ロlム層はそれが堆積風化してできたものである。洪積台地の最上部にある赤土はそれである。七万年前ごろから地球は寒冷期に入り南極や北極に万年氷ができるにつれ海面がさがりはじめた。そして二万年前ごろの海水面は今より一O第l章0メートル以上も低かった。そうなると河川が海に向けて大地を深く削る結果となり、北浦の湖底を調ぺると、旧鬼怒川、旧巴川によって削られた谷のあとが現地面より四0メートルから七0メートルも深い所に残されていることがわかっている。したがってその頃の鹿島灘の海岸線は現在よりはるか沖にあり、陸地がム広がっていた。その時代の関東平野の気候は今の十勝平野なみの気候であったとされ、植物も現在日光戦場ヶ原あたりにみられる亜高山帯の針葉樹が生育していたはずである。さて現在の関東平野全体の台地表面の高さは周辺が高く中央付近がくぼんだ盆状の形となっている。〆隣』舎〉3Lサ'h4Nって鹿島台地は四0メートルの標高をもち最も高く行方台地、稲敷台地と、ゆるやかに西に行くにしたがって低くなっている。潮来町では北浦に面した台地が高くしかも急な崖状をなして北浦側の低地へと落ちこんでおり、東から西にわずかに低くなっている。地球はその後気候が温暖となり氷河の融解等によって海水面が上昇し、約六O00年ほど前には現海水面より数メートル高くなった。海水は川筋や谷に沿って進入し台地を削り北浦や霞ヶ浦も当時入江になった。人類にとってこの頃は縄文時代にあたり}の海進を縄文海進とよんでいる。地質時代最後の海進により台地の聞の谷に沿って進入した海には多くの貝類が生息し、縄文人の良い食料となった。そして捨てられた貝がらは員塚として残り地図上でその位置をつなげると、当時の海がどのあたりまで進入していたかが推測できる。また霞ヶ浦や北浦の周辺では縄文時代の後期から製塩が行われていたことが各地から発見されている製塩用の土器によって明らかである。奈訟がれうみこの当時流海と良時代の製塩については「常陸風土記」に出ており、記された現在の霞ヶ浦や北浦は内海であり海水には多量の塩分が含まれていた。)の海は八世紀初めごろまでは残っていたようである。この水郷地方には鬼怒川や小貝川が運んできた土砂が次々と堆積し霞27