ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世誌・潮来絶句・潮来節』)。}のように、木下茶船に代表される水郷遊覧の隆盛は、近江戸文人の水郷遊歴歓楽の巷としての潮来を題材とした江戸文芸を生み出しIVた。しかしそれらが庶民に提供する「遊里潮来」像とは別の、交通と深くかかわった文化が形成されていた。江戸と水郷各地を結ぶ水上交通は、在郷町や河岸場に経済力を与えた。その結果、村役人、地主、豪商、神官、僧侶や一般民衆を含む広範な知識人層は形成された。江戸文人の水郷遊歴はかれらに知的刺激を与え、水郷の知識人層は、地域の課題を見据えた独自の学問文化を生み出した。潮来が生んだ考証学者宮本茶村の業績は、水郷の交通文化の中から生み出されたともtEコ2・える。このような水上交通を利用して、水郷地方を遊歴している。貞享四年(一六八七)八月、芭蕉と門人曾良・宗波は、江戸深川俳人松尾芭蕉も、から川船に乗り、小名木川を経て、下総行徳河岸(千葉県市川市)にあがった。ここからは徒歩で木下街道を通り、下総台地を横切って、利根川畔の布佐村(千葉県我孫子市)に着いた。一行は、布佐村から夜船に乗り、翌日に鹿島に着いた。芭蕉師弟は、鹿島根本寺などを訪ね、帰路も行徳河岸を経て、十五日間の遊歴を終えている。芭蕉の水郷遊歴は、のちに江戸庶民や文人の間で流行するコニ社参詣」の原形をなすものであったと言えよう(川名登『河川交通の文化史』)。寛政期(一七八九1一八OO)から文化・文政期(一八O四i二九)にかけて、江戸文人の水郷遊歴がもっとも盛んに行われた。例えば、寛政六年(一七九四)には国学者賀茂真淵の高弟加藤千蔭と村田春海が、香取、鹿島、銚子を遊歴している(加藤千蔭『香取の日記』)。村田春海門下の高田与清も、文政三年(一八二O)に水郷各地を遊歴し、銚子に遊んでいる。与清は、武蔵国多摩郡小山田村に生まれ、国学を村378田春海に学び、のちに武蔵国東部の見沼通船を差配する高田家の養子となった。字は文儒、号は松屋と言い、特に考証学を深めた。与清の著書『鹿島日記』によれば、天保元年九月七日、与清は鹿島詣でを思い立つはがさわみ〈にて江戸を出立したという。同月二十日から十月五日まで佐原の永沢民国のもとに逗留し、知友、門人や与清を慕う多くの人びとと交流を深めている。朗国は宝暦五年(一七五五)の生まれ、佐原の歌人で加藤千蔭に和歌を学んだ。寛政六年に千蔭と村田春海が水郷を遊歴した折りにも、病国のもとに逗留している。与清が周囲方に逗留している問、九月二十六日には「延方の里人沢田弘、関沢嘉徳」がはるばる与清を訪ねている。沢田は延方郷校の学士で、経学教授の久沢木清淵を通じて、高田与清のせいえん来遊を知り、面会を求めて来たものであろう。なお久保木清淵(崎竜、竹窓など)は水郷地方における文化交流の一つの核になる人物であった。清淵は、宝暦十二年(一七六二)、津宮に生まれ、香取根本寺に仮住の松永北漢に和漢の諸学を学んだ。清淵は、津宮村の名主をつとめるかたわら、水戸藩の郡奉行小宮山昌秀(楓軒)に請われて、延方郷校で経学を講じている。彼は、佐原の豪商伊能忠敬とも親交があり、その全国測量事業を支援したことでも知られている。また渡辺挙山とも親交があり、文政八年(一八二五)、準山が銚子に遊ぶ途次、津宮に清淵を訪ねている(『佐原市史』)。また、文化十三年(一八二ハ)と文政二年(一八一九)には、国学者平田篤胤が利根川下流域を遊歴し、おもに東下総地方において多数の門人を獲得した。やはがわせいがん天保十二年(一八四一)三月、勤王詩人梁川星巌は江戸を出発し、潮来・鹿島を経て、房総を漫遊する五か月の遊歴を行い、その途次に得た