ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
それによれば、星巌も木下河岸から夜船で利根川を下り、詩情を『浪淘集』に遺している。まず潮来に達している。潮来では、宮本茶村の許にている(『改訂房総叢書止宿して旧交を温め、十二橋に遊んでいる。潮来では、次のように賦し第四輯』)。亭墓一族枕江煙。低咲浅噸揮不用。鋳冶何労百錬金。筑波山是佳夫婦。誰把竹枝誇老劉。新声我亦写謡俗。衣香吹暖往来風。潟月梨花春夢白。楼当百里河声半。不敢高吟君会否。商女如花面々折。只留繊手槍紅鮮。水光明徹碧深沈。日画修眉向鏡心。子遷章句最風流。柳黛桜層能唱不。十二湖橋板々通。煙村水市夜燈紅。人在重簾酒影中。潮来を辞した後、星巌は鹿島神宮に参拝し、佐原、小見川の知友を訪欄勾直下是竜宮。ね、さらに銚子に向かっている。このような文人の水郷遊歴には、利根川流域の名主、豪商、神宮及び僧侶といった知識人層や一般庶民と講義や歌会などを通じて交流し、門人の獲得や著書の販売を行うという目的があったが、水郷の人びとは一港町の繁栄と推移方的に江戸文化の片鱗を受容しただけではなかった。水郷の知識人層は、江戸文人との交流の中から、地域に対する問題意識を底に秘めた精轍な考証学研究を打ち立てている。第3章考証学者宮本茶村星巌の詩友宮本茶村は、寛政五年(一七九三)、潮来村の年寄である宮本平右衛門高重の子として生まれた(植田敏雄『近世後期の考証学者・詩人宮本茶村』)。通称は尚一郎、詩は元球、字は仲拐で茶村・水雲と号した。文化四年(一八O七)頃、彼は実兄重村とともに江戸の儒学者山本北山に入門している。このころから江戸で詩才を認められたが、文化九年、師北山の死により帰郷している。帰郷後は家業の再興に努めるかたわら、私塾「恥不若」を聞き、また水戸藩が文化四年(一八O七)に聞いた延方学校で久保木清淵とともに教鞭を執った。茶村門下からは真壁の勤王家桜任蔵、佐原の豪商伊能節軒、鹿島の吉川天浦・君浦などの人材を輩出した。また、天保元年(一八三O)、茶村は水戸藩主徳川斉昭に海防・教学の必要を上書し、同四年には斉昭が領内巡視のおりに茶村宅に立ち寄り、学業を賞している。また、天保七年の大飢鐘の際は私財を投じて窮民を救済し、同十三年には水戸藩の天保検地にあたり土地方改正掛を命じられるなど、勤王家として頭角を現していった。勤王詩人として名を成していた梁川星巌が潮来に茶村を訪ねたのも、この頃であった。茶村は、篤学に加え義倉を設立したり土地方改正掛をつとめるなど藩政改革に尽力したことにより、天保十四年(一八四三)に郷土に任じられ、弘化元年(一八四四)の水戸藩主徳川斉昭の雪寛運動に指導的役割を果たしたと言われる。しかし、翌年、藩政を掌握した門閥派によって獄に繋がれる。嘉永二年(一八四九)に聾居が解かれると、家督を長子千蔵に嗣がせ、以後もっぱら門弟の教育と著述に専念し}のころから水雲と号している。嘉永田年、茶村は『関城鐸史』を著し、安政六年(一八五九)に『常陸国郡郷考』十二巻を脱稿した。そして、翌年には両著作を水戸藩に献納している。それ以後も、『常陸誌料』にまとめられる著書として、「平氏譜」「佐竹氏譜」「小田氏譜」「鹿島長暦」「常陸長暦」を著し、その他にも「隻硯堂誌紗」「輩黄斎誌稿」などの漢詩文や「安得虎子」「坂東八379