ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世館譜」「鎌倉大草紙挟証」などの史料考証を著し、文久二年(一八六二)六月に七十歳で生涯を閉じた(小森正明「『安得虎子』についての一考察」近『茨城県史研究』五回)。W宮本茶村は江戸で修学し、江戸文人との交流の中で独水郷文人のネットワーク自の学問を形成した文人のひとりであるが、茶村のように江戸学界や文人サークルに触発されつつ、地域に根ざした独自の学問を確立した水郷文人から、さらに地域文化の輪が広守主つ「」、っ、、。JzA41、vJJいろかわみなか茶村の学問的交流の輪に土浦の豪商で国学者の色川三中がいる。色川三中は、家業の薬種商や醤油醸造業を興す傍ら、国学者として考証学の研究を深め、『香取文書纂』を編纂した。また、『新編常陸国誌』『常陸編年』を著した考証学者中山信名の遺稿と蔵書を引き取って整理し、『常陸志料雑記』六九巻を編集しているが、それらは茶村にも貸与された(中井信彦『色川三中の研究伝記編』)。茶村の業績は、土浦の色川三中や長島尉信、津宮の久保本清淵、佐原の国学者伊能穎則、江戸の和学者黒川春村、塙忠宝との交流の中から生み出されたものといえよう(茨城県立歴史館編『幕末農政学者長島尉信とその時代』)。さらに、茶村の薫陶を受けた水郷の文人に、徳島の金田悔村や佐原の清宮秀堅・伊能景晴(節軒)らがいる。梅村は寛政六年(一七九四)に徳島村に生まれ、のちに佐原の金田梅雪の養子となった。彼は茶村の許に寄寓して漢学を学び、のちに江戸へ出て頼三樹三郎に師事している。帰郷してからも詩作を続け、梁川星巌や水戸学者藤田東湖、仙台藩の漢学者大槻磐渓らと親交があった。その友人である秀堅は、文化六年(一八O九)、文雅で名高い清宮利右衛門家に生まれ、名主や領主である旗本津田氏の御用を勤めるかたわら、れている。宮本茶村『常陸誌料郡郷考Jl(千葉県立中央博物館蔵)茶村や久保木清淵に学380び、江戸の儒学者塩谷宕陰や土浦藩校郁文館の督学をつとめる儒学者藤森弘庵(大雅、天山)、色川三中とも交友があった。とくに、三中からは当時は稀観本とされた「令集解』写本の提供を受けているし、下総国の地誌の集大成として高い評価第IV-37図を得た『下総国旧事考』は、三中が草稿段階で眼を通したと見ら節軒は、文化五年(一八O八)、佐原の豪商伊能茂左衛門家に生まれた。彼は、近世中期の歌人揖取魚彦の曾孫にあたる。彼は、名主として窮民救済に尽力するとともに、茶村に入門している。また、文久年間(一八にあたり、解決に尽力した。六一i六一二)の水戸浪士の騒擾に際しては、秀堅とともに浪土との折衝また、高田与清も水郷一帯において多くの門人・学友を得ているが、なかでも鹿島神宮の社家であった北条時都が有名である。文政六年(一八二三)、時都は鹿島信仰の解説と鹿島参拝の案内書を兼ねた『鹿島志』(別名「鹿島名所図会」)を刊行しているが、}れには高田与清の助力が