ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世近第二節仙台河岸と津軽河岸IV三方を水に固まれた潮来地方は、古くから水運の要所で水運と潮来あった。特に江戸幕府が成立すると、東北諸藩の年貢米や諸物資が内川廻り潮来経由で江戸に廻漕されるようになった。当時、大量の物資を輸送するのに、水上輸送が陸上輸送よりも便利で、運賃も安かったからである。内川廻りで潮来を経て江戸に入る舟運には、二つのコlスがあった。その一つは、奥州方面から太平洋を南下した廻船が、那岡湊から潤沼に入り、海老沢河岸(東茨城郡茨城町)に荷揚げする。そこから馬に積み替えて陸路を紅葉(鹿島郡鉾田町)や下吉影(東茨城郡小川町)まで運び、小舟で巴川を塔ヶ崎や串挽河岸(鹿島郡鉾田町)におろし、ここで高瀬舟に積み替えて北浦から潮来に出る。潮来からは現在の常陸利根川から横そして関宿(千葉県東葛飾利根川を通って佐原に出て、利根川を湖り、郡関宿町)から江戸川の舟運を利用したのである。」のように手数のかかる積み替えや、距離の延びる迂回路を辿るコlスが利用された理由は、当時、鹿島灘沖の航行が危険であり、また、房総沖を回って江戸湾に乗り入れることが技術的に困難であったからといわれている。潮来を通る他の一つのコlスは、奥州から南下した廻船が那岡湊を経て鹿島灘を乗り切り、銚子の河口から直接利根川に入って潮来に出る。ここで荷物を海船から川船に積み替え、同様に利根川を湖上して江戸川に入る方法であった。}れはのちに銚子で海船から川船に積み替えるように変っている。この二つのコ!スのうち、那岡湊から澗沼を経由して潮来に出るコ1382スが先に聞かれ、その後、銚子河口から入船するコlスが一般化したとされてきたが、近年、両コlスとも近世初期から利用されてきたとする説が有力になってきた。しかしいずれのコlスを辿っても寛文期(六六一i七二)から元禄期(一六八八1一七O三)には、東北諸藩から潮来を経由して江戸に廻送される物資が多かった。そのため、潮来の前川筋には仙台藩・津軽藩などの蔵屋敷や遊廓なども設けられ、潮来は港町として、また行楽地として繁栄した。仙台蔵屋敷常陸利根川と北浦を結ぶ前川に沿った大字潮来と大字辻の境辺に、「此のあたり旧跡仙台がし」と刻まれた石碑が建っている。この辺一帯が江戸時代の仙台藩蔵屋敷の跡地である。「仙台蔵屋敷事件旧記より書抜覚」(潮来町窪谷和夫家所蔵文書)は、明治初年、蔵屋敷地の払い下げ問題に関係して、仙台藩蔵屋敷の穀宿を数代にわたって勤めた窪谷家の子孫が、古記録を参考にして蔵屋敷の経緯を書残したものである。後世の記録であり、一部分欠けてはいるが、現在、町内で確認されている唯一の基本史料と思われるので、本史料によって仙台蔵屋敷の概要をみていくことにする。まず、仙台蔵屋敷設立の由来については、代々仙台藩の穀宿を勤めてきた宮本平右衛門と窪谷庄兵衛の両名が、天明元年(一七八一)九月、仙台御役所へ差し出した願書のなかで次のように述べている。慶安二年、仙台藩は江戸へ運ぶ穀物を潮来に廻漕したいと考え、窪谷圧兵衛の先祖、藤右衛門へ依頼した。依頼を受けた藤右衛門は国元の仙台へ行ったり、密の相談を重ねた。また、江戸の仙台藩屋敷へ幾度も出向いて内その内容は、潮来に御屋敷や穀蔵を造って末長