ブックタイトル潮来町史

ページ
396/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている396ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

世近IV-かか年‘事盆即-品切必写a,AI事1?'KF#AU12261羽咽75,に、「今年板久村一一テ河岸ヤシキノ地五百歩余仙台侯一与へラル或ハ慶安二年賜トモイへ「仙台蔵屋敷事件旧記より書抜覚」リ」とあるのは、それを一裳付けるものである。また、承応二年としているのは、正式に除地となった年代を第IV-39図仙台蔵屋敷の開設としたためであろう。但し、蔵屋敷の規模について『水戸紀年』に五OO歩余とあるが、「仙台蔵屋敷事件旧記より書抜覚」では二七三O歩余と大差がある。しかし、潮来村と辻村から借384上げられた土地が両村で高五石八升八合になるから、「五百歩余」の数字は誤りと考えられる。}の蔵屋敷の規模は、その後次第に拡そして張されている。それを示すのが、「此度拙者田地之内御蔵屋敷江御囲入被成度由ニ付、西之方御屋敷境より北ノ方へ長弐拾間半、聞東境より西ノ方へ長三拾問、此歩数弐反六畝拾五歩之所御用地一一借シ上御蔵屋敷-一被遊候」の記事である。これは延宝六年(一六七八)十二月、板久村の地主与平治、十三郎、太右衛門、助次郎、太兵衛の五人が、仙台藩蔵屋敷の「板久御米宿」を勤めていた窪谷太右衛門・同宮本山三郎、並びに板久村庄屋石田勘兵衛らを仲介として、仙台藩蔵屋敷の役人武田五兵衛・永倉茂兵衛らに差し出した証文の一部である。地主一同はこの証文のなかで、新たに仙台藩に貸渡す二反六畝一五歩の土地代として、米五石六斗五升を来る未年(延宝七年)から、毎年受け取ることに定めたという。そして、翌延宝七年七月にも、「横四間長拾九問、此歩数弐畝拾六歩之所、板久御蔵屋敷東之方-一而御囲添御番所被相立候」と、二畝二ハ歩の土地が借り上げられている。}れは蔵屋敷内に多くの米蔵が建てられたので、穀揚場、つまり廻米の揚げ下げをする場所が手狭になった。そのため、藩役人の横目衆や屋敷番の詰所をそれに当てたので、新たに役人の詰める番所が必要となり、蔵屋敷の東沿いを借地したのである。そして、この地代として一か年に金一両を、延宝七年分より支払うことが約束されている。このように仙台藩蔵屋敷の敷地は必要に応じて借り増しされた結果、敷地の反別は約二町歩余であったという(「潮来町沿革誌」)。}れに関係して『桃践雑話』に次のような記事がある。