ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

潮来に仙台河岸が聞かれてから、仙台領内より江戸への廻米船は毎年三四百般ずつ潮来へ入った。しかし、正徳・享保の頃より蔵屋敷前の川が次第に埋まり一方海船も次第に大船になってきたため、着岸できなくなった。仙台藩は水戸藩に依頼して享保十七年子年七月、辻村地内に新川を掘割った。此費用の金六九両二分は仙台侯が出し、人足は潮来村より出した。しかし、数年のうちに再び浅瀬となり、海船は浪逆海に錨を下し、穀物は小舟に積み替えて蔵に運んだ。そのため、諸費用もかさむから、海船も直接江戸入りするものが多くなり、潮来への船は寛延・安永の頃は一か年三五、六般に減少した。それも小船で、積み俵は一四、五OO俵位となった。天明年間に至ると、銚子河口が浅瀬となって入船が困難となり、仙台船の潮来入浴は絶えた(大意)。この記事は水運の要地としての潮来の変遷を要約したものといえよう。これを裏付けるように蔵屋敷の開設から一三O余年後の天明元年(一七八一)九月、仙台藩から水戸藩に対して蔵役人引き払いの申し入れがあったことを知った穀宿の宮本平右衛門・同窪谷庄兵衛が、仙台藩龍ヶ崎陣屋の代官坂十郎左衛門に差し出した嘆願書には、次のように記されてL、h O21蔵屋敷は慶安二年より潮来村に建てられて、仙台藩の御役人も詰め港町の繁栄と推移られ、ここ数年来は廻船も銚子と潮来へ半々に廻わされていた。ところがこのたび、潮来蔵屋敷詰の御役人を引き払って御蔵番だけを置き、廻米はこれまで通りとして、着船のときは龍ヶ崎詰の役人が兼帯で取り扱いをするという。}れまで百年余り詰めていた御役人第3章を引き払ってしまうことは、穀宿をはじめ村民一同にとって嘆かわしいことである。蔵屋敷の土地は穀宿庄兵衛の先祖藤右衛門が頼まれ、末々まで廻米するとの約束で骨を折り、無年貢地にしたり、蔵前の川波いや築出しなど当方で引き受けてきた。そのため、人家も増し、他の大名衆の廻米もあり、小農民にいたるまで作徳の余力になっているので、御役人を引き払わずこれまで通りにしてほしい(大意)。この願書を差し出すにあたって、潮来の穀宿が水戸藩の役人と相談していることは明らかで、穀宿からの嘆願書に水戸藩郡奉行鈴木伴右衛門の添書が付けられている。」の添書の内容は、「潮来穀宿の願い出を吟トk:-ipP31、ゆムAHN}の願いをお聞き入れ、オももっともなる願いであるので、迄の通り銚子と潮来に半々ずつ荷物を廻わしていただきたい。なお、v}れについてご返報をお願いしたい」とあり、龍ヶ崎陣屋代官坂十郎左衛宛になっている。しかし、このような潮来穀宿からの嘆願書、並びに水戸藩郡奉行からの添書も、仙台藩の決定を変えることはできなかったようである。其の後、天保十四年(一八四三)、仙台藩の銚子詰役人細目長之助、前田河甚右衛門両名の名で潮来穀宿窪谷庄兵衛に対して、潮来出彊所(仙台蔵屋敷)がいつ頃建てられたのか、何年迄役人が出張していたのかなどを問合わせてきた。これに対する庄兵衛の回答は、潮来の川下に次第に洲ができて浅瀬となり、廻米が困難になってきた。そのため天明年中に仙台藩の改革が通達され、寛政八年より銚子陣屋の兼帯となって横目など主な役人は潮来を引き払った。残ったのは足軽衆と小揚人足のみで、荷船が潮来に入ったときだけ銚子陣屋より役人が出張してきた。しかし、その後も川の浅瀬化が進んで、ついに文化八年(一八一一)、足軽衆と小揚人足も銚子に引きあげ、蔵屋敷のことは庄兵衛方に任せられた。そのため、門や建物などが大破したときは銚子陣屋に連絡して見分けのうえ修385