ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世近W-ーー理費用をもらい、小破のときは庄兵衛方で修理している、との趣旨を回伊合している。この記事では仙台船が潮来に入港しなくなった理由を、流水の運んだ土砂の堆積による川の浅瀬化としている。事実、下利根川の流域は土砂の堆積が著しく、各地に多くの新田を成立させて流域を狭障化し、流路を浅瀬化している。しかし、仙台藩をはじめ東北諸藩の廻船の潮来入港が減少した理由はそれだけではない。既に寛文期(一六六一1七二)には河村瑞軒によって奥州から江戸への直行航路が開拓されていた。しかし、たのである。}の江戸直行航路の開拓と、それが広く利用さ386れるようになることとは別問題であり、それよりは江戸廻漕の方法が船主商人による請負方式つまり、船頭たちがカ〉ら雇船方式への移行、運賃収入の増加を求めて、江戸直漕が一般化し仙台河岸の跡たという(渡辺英雄「東廻海運の初期段階|常陸国潮来を中心に|」『北日本中世史の研究』所収)。また、潮来へ入る船が減少した理由には、利根川河口に位置する銚子港の発展がある。嘆願第IV-40図書にあるように、天明期以前には潮来と半々に荷物を扱っていた銚子が次第に潮来にとって代つまり、それまで銚子河るようになってきた。口から入った廻船は潮来で高瀬船に積み替えていたが、それを銚子で高瀬船に積み替えすれば潮来の担っていた役割は消滅する。従って今まで潮来に集まり廻船の荷物を江戸送りしていた高瀬船は、銚子に集まり荷積みするようになっさらに、潮来の水運を衰退させた原因には下利根川流路の変化がある。それまで佐原|牛堀|潮来、つまり現在の横利根川|常陸利根川筋から浪逆浦を経て銚子河口に流れていた利根川の本流が、享保期頃から次第に潮来をそれで、佐原から小見川、笹川へと直線的な現在の利根川の流路に変化していったことである(渡辺貢二『高瀬船』)。の変化が笹川河岸、小見川河岸や佐原河岸の繁栄を促し、流路からそれ}の下利根川流路た潮来河岸の衰退をもたらした大きな要因と思われる。天保十年(一八