ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
三九)に刊行された井口二峰編の『潮来図誌』に「淵瀬かわりて船もいらず」という記述があるのは}の流路の変化を意味するものであると思われる。廻船が途絶え諸役人が引き払った蔵屋敷跡は、その後荒蕪地と変ったため、旧穀宿窪谷家が仙台藩へ届出のうえ、開墾し耕地とした。廃藩後、官有地に編入されたが、明治九年、窪谷家に払い下げられ民有地となった仙台蔵屋敷の西方およそ五00メートル、前川に注ぐ石津軽蔵屋敷田川口の左手に旧漆軽藩蔵屋敷跡がある。明治期に関戸覚蔵が編集したとみられる「潮来町沿革誌」に、津軽河岸跡について次のような記事がある。津軽蔵は五丁目浜通り前川に沿ひたる所に、奥州南部より江戸廻米を入れる為に設けたる倉庫なり、寛政六己巳年(誤記か)津軽藩自ら資を投じて新築せしもの、其宅地壱反六畝十九歩は水戸藩より貸与港町の繁栄と推移第3章ふ、倉庫の構造は仙台藩の如く大規模ならず、文終歳の廻米を比較するも仙台藩の約三分の一くらいに過ぎざりし、村方にて宮本平太夫此を世話したり(中略)津軽舟は仙台船よりも形状梢大にして、銚子港口の出入不便となりしより、宝暦弐壬申年廻船を廃す、而して倉庫は水戸藩に引渡しとなる、水戸藩にてはこれを凶荒予備蓄穀用の倉庫に充て保存したりしも、明治十年頃破壊せるを以て取払ひ、敷地は官有地に編入せらる。右の記事は海軽藩蔵屋敷の概要を伝えているが、記載事項に明らかな誤りと思われる箇所がある。その一として、津軽蔵屋敷の開設時期が寛政六己巴年とあるが、寛政六年(一七九四)の干支は己巳ではなく、甲寅である。寛政が寛永の誤記とすれば寛永六年(一六二九)はまさしく己巳年であるがこれは仙台河岸が開設された慶安二年(一六四九)より二O年前のことになり、「津軽河岸は仙台河岸より少し遅れて開設された」との地元の伝承と相違する。この津軽蔵屋敷に関係して、幕臣の林笠翁が書いた随筆『仙台間語』がある。この随筆のなかで潮来のことについて「昔ハ銚子浦ヨリ大船ノ「潮来町沿革誌」入来シヲ、漸々島々生出テ五六十年ハ一向不来ト潮来ノ関戸如水上玄老人ガ二十余年前語レリ」と書いている。}の文中に登場する「潮来ノ関戸如水」は、寛文元年(一六六一)麻生藩士岡山半右衛重綱の三男として麻生に生れ、幼名を六内、成長して綱正を名乗り、晩年に如水と号し第IV-41図た。貞享元年(一六八四)叔父に当たる潮来村の関戸瑞津(利左衛門重友、麻生藩作事奉行岡山孫左衛門の三男で関戸家の養子となる)の懇請によって藩籍を離れ、関戸家の養子になった。商家に養子入りした綱正(如水)は、大いに努力して旧家の関戸家主舟興させ、潮来村の年寄や庄屋を勤めたほか、「長勝寺物語」「退圃随筆」387