ブックタイトル潮来町史

ページ
400/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている400ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

世近W「関戸本源記」「関戸家名相続物語」など多くの著書を残している。河岸場内の普請は津軽藩の自由とし、普請材料な388どは入用次第に市郎兵衛に指図するようにと、水戸藩の役所から津軽藩役人に世話されたことなどが記述されている。)のなかで気になる問題は、津軽船の潮来着岸津軽河岸の跡が市郎兵衛の潮来村庄屋時代ということである。市郎兵衛が潮来圧屋を勤めた年代について、「潮来御領村役人姓名録」(茨城県立歴史館蔵「須田家文書」)には「延宝」年間とある。}の文書は明治初第IV-42図期に書かれたもので、古い時代については正確な年代がわからないため、年号だけの記載になったと考えられるから、或は市郎兵衛の庄屋役が寛文期までさかのぼる可能性もあろう。そのように考えると、津軽藩の「江戸日記」の寛文八年(一六六八)八月十二日の記事にある津軽の廻船が板久河岸に着岸したことそして同十四V」目の中田彦左衛門ほか数名の役人が板久へ遣わされたということ(前掲日の記事にある津軽藩江戸屋敷から、小知行御横のうち「関戸家名相続物語」(寛保元年関戸如水八一歳の作)のなかに、「東廻海運の初期段階|常陸国潮来を中心に|」)も納得できるし、「潮来沿津軽廻船についての記事がある。}れには綱正の義父(妻の父)である関戸市郎兵衛が潮来村の庄屋役を勤めた時代、折々津軽の廻船が潮来に到れる。革誌」にある津軽河岸の開設が寛政とあるのは、寛文の誤記とも考えら着した。市郎兵衛は船手より依頼されて津軽船が運んできた荷物を、高また、津軽の廻船について前述の「関戸家名相続物語」には、津軽か瀬船で江戸送りするようになったこと。その後、多くの廻船が潮来に着らくさまき材木や穀物を運んでくる廻船は仙台船よりも大船で、八O O岸するようになったので、市郎兵衛が水戸藩へ河岸場の設置を申し立て、石積、或は一OOO石積の船であったこと。津軽藩の蔵屋敷には藩の役藩の郡奉行が潮来にくだり、藩の人足を使役して河岸場を築いたこと。人が交替で来ていたが、関戸市郎兵衛の願いにより同人の総領婿の寺島