ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

三郎兵衛という者を常勤の役人として百抱えたこと。津軽の廻船は元禄年中迄は折々潮来へ着岸したが、それ以後は潮来には入津しなくなったこと。しかし、御船宿を勤めた市郎兵衛方へは、市郎兵衛の生存中、津軽藩より毎年金五両ずつが支給されていたこと。潮来に冬到着の廻船は海が荒れて津軽へ帰るのが困難なため、船頭達は番人二人を置いて陸路を通って国許に帰った。船は潮来津軽河岸下より東の方へ固い置き、春の二月末か三月初めに船頭が来て国許へ回漕した。津軽船は一五、六人から一八人乗りの大船で、潮来前川が段々浅瀬となると東方の須賀、曲松(延方地区)の方へ囲い置くようにしたことなど、興味深い内容が記述されている。このように本書は津軽蔵屋敷について様々な内容を伝えているが、津軽船の潮来入港については、「元禄年中迄は折々着津候へ共其後は大阪廻りは勝手に来候由此方へは参らず」と記している。」れに対して「潮来沿革史」では、「津軽船は仙台船よりも形状梢大にして、銚子港口の出入り不便となりしより、宝暦弐壬申年廻船を廃す」としている。つまり「関戸家名相続物語」では、津軽船の潮来入津は元禄年閉までとしているが、「潮来沿革史」では、それから五O年後の宝暦二年(一七五二)に廻船を廃止したという。しかし、国許の「津軽旧記類」には、「天明元年十月、是迄水戸様御港町の繁栄と推移領分常州放湖(来)港-一市御抱屋敷六百廿六坪、当時内川通船無之、御廻米銚子廻りにて御不用ニ付、右地面同所御家来寺崎三郎兵衛へ永く被下候」(印牧信明「津軽藩の敦賀蔵屋敷と廻米制について」『海事史研究』第五一号〉とあって、正式な潮来津軽屋敷の廃止を天明元年(一七八一)として第3章、'30、h v-aK1これらの諸史料から考えて、津軽廻船の潮来入津は元禄年閉までであり、それ以後、津軽蔵屋敷の拠点は銚子に移って、実質的に潮来への廻船は途絶えていたが、六百余坪の屋敷地を整理して正式に廃止したのが天明元年であったろう。なお、津軽蔵屋敷跡地を永預りした寺崎三郎兵衛は、津軽蔵屋敷を開設した関戸市郎兵衛の女婿、寺崎三郎兵衛の子孫が一一一郎兵衛を襲名したものと考えられる。廻船が廃止された後、津軽蔵屋敷内の倉庫などは水戸藩に引き渡され、水戸藩はこれを凶荒備蓄用に使用した。しかし、明治維新により古くなった建物は取り払い、土地は官有地に編入されたと伝えられている。「関戸家名相続物語」「関戸本源記」「長勝寺物語」「退ある潮来商人の商い圃随筆」などの著書を残した関戸如水は通称利兵衛、また利左衛門を名乗り、晩年に如水と号した。水戸藩が御用金の制度を始めた元禄十三年(一七OO)、潮来の商人が御用金総額の三分の一を拠出したことは広く知られているが、このとき関戸利兵衛は三O両の御用金を出して名簿に名を連らねている(「探求考謹附録」)。「関戸家中興の祖」と伝えられている利兵衛は、麻生藩士岡山半右衛門の三男として生れ、成長後は麻生藩に仕えたが、叔父で潮来村の関戸家に養子入りした関戸利兵衛(瑞沢と号す)の懇請により、員享元年(一六八四)二月二四歳で関戸家の養子となった。関戸家の先祖は、戦国末期まで近隣に武威を誇った嶋崎城主の重臣(「関戸本源記」)であり、その由緒によって「潮来八人頭」の一家として年寄役を勤めていたが、利兵衛が養子入りした当時、関戸家は経済的に困窮していた。家督を相続した利兵衛は三、四年の間家業の農業に従事したが、関戸家の家産を再興するため、商売をはじめることを決意した。貞享四年十月、麻生藩士の実父より分与された万を売却、僅かな元手389