ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世l H 40hiしーeiFitjγ4 !は常山州市1心外lm-Z修治相-伶粉一窃ー事砂汐』泊--d白人-踊れ噌aajゆるよパ殺すjぷ尋pap-Z卦fle年〆t・伺子炉者約花一、ら?争茶話ljyhi崎氏も路川ろあげi、すゐぜずト1.jia・-陶-Tゐ寸!妙ウZsい与すJ411リト品V4gゑ秒、よW62ふれ)手jノ一臨時移み弘子)ーすj川口蹴近W一μ一、を作って下総国佐原の市場へ行き、茶・煙草管紙、煙草入、綿糸などを買入れて商いの第一歩をふみ出した。このような小商いの利益を少しづっ蓄積し、次第に古手(古着類)から伊丹酒の販売へと商売を拡大していった。一方、江戸から東北方面に廻送する諸荷物の保管業ゃ、高瀬船を造って回漕業を営み、さらには材木の売買までに乗り出し、家産の再興に成功した。この間、関戸利兵衛は潮来村の庄屋役を勤め、また、菩提寺の名刺海雲山長勝寺の復興に尽力し、後世にその名を残した。)の利兵衛が養子入りした関戸家の家産を再興するため商業を志して、小商いから次第に規模を拡大し、元禄・宝永期には仙台商人との取り引きをするまでに発展した。その様子を利兵衛が晩年に書き残した自叙伝ともいうべき「関戸家名相続物語」のうち、弐巻の「仙台荷物潮来へ初めて廻る事」、「同仙台並石巻へ下り候事」からみてみよう。ちり紙、木この記録によると、元禄六年(一六九三)の秋、関戸利兵衛が屈の仕入390れで江戸小網町の商人金子紋兵衛宅へ行った折、一人の男が来て、「四「関戸家名相続物語」月、五月に積み立てた仙台商人衆の古手、木綿八百駄程が房州沖で破船し、荷主衆が大損をした。七月、八月に荷積みした船は一般も石巻に着船せず、処々へ問合せたが全くわからない」との話をして帰った。紋兵衛にいかなる事かとたずねたところ、伝馬町の太物大問屋赤塚善衛門の番頭平兵衛と云う者で、古手、木綿、くり綿など多くの荷物を仙台へ下し、その他の問屋衆も薬種、小間物、古手などを仙台へ大廻七廻船で積第IV-43図み出しているが、近年は廻船の破船が多く商人衆が難儀している、との話を聞いた。そこで利兵衛は紋兵衛に、従前から東北諸藩の廻船が潮来へ廻漕した一戻りのコlス、つまり江戸から潮来へ荷物を川船で下し、潮来から銚子に出て海上を石巻まで下る廻船で送れば、破船の心配は無い。それに日数もかからないから扱い人の利益にもなる、との話をした。これを聞いた紋兵衛は、大変良い話をお聞きした。平兵衛にこの話をすれば喜ぶだろう。我等が江戸より潮来まで川船を雇えば、十分の一の手数料を取るから多少は利益にもなるし、当地(江戸)で荷物の世話をするから、問屋衆は蔵敷料(荷物の保管料)として、荷物一O駄につき銀二O匁くらい取るだろう。潮来で引き受けてもほぼその程度になるから、世話人を頼んでしても採算はとれる。人の為にもなるし、貴方のためにも、自分のためにもなるからと、二人で赤塚善衛門の番頭平兵衛を訪ねて次のような話をした。仙台藩では穀物を江戸へ送るため潮来に蔵屋敷を建てて置き、石巻や荒浜で荷積みした船は銚子湊から利根川に入って潮来に着き、積荷を御からふねお蔵屋敷へ納める。これは一両日で済み、空船は銚子へ下りるが、」の間