ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世永三年の秋、関戸利兵衛は仙台荷主衆への挨拶のため、使用人の源介を連れて仙台、石巻への旅に出かけた。九月七日に潮来を立ち十四日に仙近台大町の尾張屋に着いた。利兵衛はこの尾張屋に一六日間逗留して、W所々の荷主達を訪問して進物を配り、名所見物などをした。それから石巻に足をのばし、鳥屋十左衛門方に五日間逗留してこの地の問屋衆を訪問した。十月朔日に石巻から再び尾張屋へ戻り、四日に仙台を出発して棚倉、相馬、岩城を経て湯本に一日逗留、十月十二日潮来に帰着した。この挨拶廻りで関戸利兵衛はおよそ六五名の荷主衆を訪れ、みやげ物を配っている。商売をはじめてそれ程の経験もなかった関戸が、仙台、石巻にこれ程多くの取り引き関係者があったことは、}の時期に潮来経由で仙台に送られた下り荷物の多かったことを物語ると思われる。しかも、江戸から潮来経由で仙台、石巻に荷物を送るコlスを、江戸問屋の番頭衆が関戸の話で初めて知ったというのは意外に思われる。東廻海運の発展により、既に潮来には仙台藩や津軽藩の蔵屋敷が設けられ水運の要地として賑わい、その最盛期を過ぎた元禄中期になって、東北向けに大量の生活物資が送られてきたのである。この記事から、慶安・承応期より東北各地から潮来経由で江戸送りされていた諸物資は、すべて諸藩が直接江戸送りする物資、或は藩の委託を受けた御用商人の扱う物資だけであったこと、そして、江戸の一般商人が扱った庶民向けの生活物資は、東北諸藩からの廻船が減少した元禄期になって初めて潮来経由で東北方面に送られるようになったこと、また、潮来の商人関戸利兵衛が知り合った江戸、仙台の問屋、荷主衆は、東北諸藩の江戸廻米に全く関係をもたなかった中小の商人層であったのではなかろうか。しかし関戸利兵衛が、元禄七年からはじめたという江戸問屋衆からの古手、木綿の一時保管と、廻船の帰り荷物としての海上輸送は、宝暦五、392六年頃から途絶えてしまった。その原因として、帰り荷物を積み込む仙台からの廻米船が海上を江戸に直行するものが多くなり、潮来に入津しまた、東北から海上を南下してきた廻船が利根川を湖上せず、銚子に置かれた蔵屋敷に荷入れしたり、或は銚子で海船から川なくなったこと、船への積み替えをするようになったので、潮来では廻船の手配が困難になってきた。そのため、荷主衆に事情を説明して、宝暦五、六年頃より下り荷物の取り扱いをやめることにした。しかし、関戸は元禄七年の夏、この仕事をはじめてからやめるまで一五、六年になるが、一度の破船も間違いも起らなかったと書き残している。この間、関戸は元禄十年(一六九七)に金五五両余をかけて高瀬船の敷ぬきかえ修理をし、また、同年中に小舟一般をも造った。同十二年には二問、五聞の総二階の蔵を金二三両余で造っている。そして同十六年の夏から材木の売買をはじめた。材木は江戸と銚子で仕入れ、地元で売った。これ以後、関戸家の商売は材木・穀物・下り酒の売買が中心になったという。武士の家に生れながら士籍を離れ、農家に養子入りして数年の間農事その後、家産を再興するために商売の道を志した。身の廻り品あき忽を売却して少しばかりの資金をつくり、小さな商いをはじめた。本人のを経験、努力と才能は潮来の地理的な位置、歴史的な環境を見事に生かしながら、次第に規模を広げ、潮来商人の地位を築いた関戸利兵衛の事例である。