ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第三節潮来の遊廓江戸時代の公娼制度は、二代将軍徳川秀忠が江戸の吉原遊廓の成立に遊廓開設を許可したことにはじまる。吉原を創立したのは庄司甚右衛門という人で、慶長十七年三六一二)に三カ条の設立趣意書を添えて公許を願い出て、それが元和二年(一六一六)に許可され、同四年から営業を開始したという。これ以後、幕府の集娼公許制のもとに遊廓は全国各地に設立されるようになる。「集娼」すなわち遊女屋を一か所に集めることにより、遊廓経営側はより大きな営利事業を企画し、幕府側は風紀取締り、人身売買の制限(幕府は原則として人身売買を禁止していたが、遊廓にかぎって一O年の年季奉公という形で公認していたて犯罪人逮捕をはかった(西山松之助「廓の成立」『国文学・廓のすべて』所収)。潮来の遊廓の成立年代については明確ではないが、水運が盛んになるにつれて船宿などが女たちを置くようになったという。『潮来遊里史』(大久保錦一編)によれば、延宝七年(一六七九)三月、庄屋の関戸利右衛門と年寄の窪谷太右衛門の両名が旅龍屋八軒と、一軒につき八、九人の港町の繁栄と推移飯盛女を置くことを水戸藩に願い出ている。」れに対し、天和元年(六八一)六月に郡奉行から呼出しがあり一、御領(水戸藩)内の婦女を百し抱えざること。二、生国身元(出身地)等相分からざるものを百し抱えざること。第3章三、御領(水戸藩)内の者は遊興をなさしめざること。を条件に許可されたといい、}れが潮来遊廓のはじまりといわれる。水戸藩では、浜一丁目に公娼を許可することにより、その地方の繁栄をはかるとともに、遊女屋からの上納金によって藩財政の潤沢化をはかり、同時に怪しい者があれば、遊女屋に通報することを約束させ、逮捕に役立てようと企図していたとおもわれる。「関戸家文書」によれば、当初八軒の遊女屋は、旅龍屋として貞享元年(一六八四)三月に蔦屋八郎衛門が開業したのを最初に、同年六月には荒木や侍八(元禄四年八月大和や源左衛門と改名)、俵や五左衛門、七月には柏や武兵衛、松屋市郎左衛門、同四年五月橘や万衛門、元禄元年(一六八八)八月東や十衛門、四つめや七郎兵衛の八名が開業したとある。同史料の「新町旅龍屋初ル事」には蔦屋八郎衛門についての詳しい記載もありその大意は次のようである。蔦屋八郎衛門という人物は、もともと潮来村の百姓で、与兵衛というのはその弟である。両名は義公(水戸藩主徳川光園)御成の際には「御用廻り」へも罷り出で、与兵衛はその後、江戸小石川の藩邸で「御肴御用」を勤めていた。ところが、前々から出入りしていた「御肴や共」の妬みを買ったものか、仕事に支障をきたすようになり、大阪方面へ移っていった。その際、金を持ち出すなどの問題を引起し、八郎衛門、与兵衛、久衛門の三人兄弟は「闘所」(追放および財産没収)の処分を受けた。数年を経て、帰村を許されたが、村に帰っても仕事はなく、しかたなく庄屋の利右衛門と太右衛門が藩に掛け合い、旅龍屋(女郎屋)の開設を願い出ることとなった。こうして、八郎衛門らが営業をはじめるわけだが、)の史料では八郎衛門のことのみで、他の者については記されていない。?矛為、φ'hAHNど・フいsフ人物が遊廓を営んだかを知る手掛かりとなり、潮来遊廓の性質を知るうえで興味深い。393