ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

が計六人いた。このほか、各楼に一人から六人の禿(かむろ、遊女の雑用をする幼女)四ツ目屋太兵衛享和元年(一八O一)の分遊女数九人万屋伝兵衛伊勢屋安兵衛いのくちゃ安衛門柏屋平五郎大和屋十兵衛河内屋甚兵衛AEコO /\九七六六人客数一二OO人二九OO二五OO二000二七00二六OO一七OO一六五O O人河内屋甚右衛門天保十一年(一八四O)に南郡奉行所へ報告された分(遊女数のみ)遊女数二四人蓬茶屋清兵衛千歳屋七右衛門松本屋清兵衛二葉屋卯之助松葉屋喜太郎AEコこの年の遊女の出身地は、下総と常陸がその約八割を占め、その大半が貧困のため農港町の繁栄と推移一-L./\二五九-'-O /\一四O人ほかに越後、陸奥、駿河、上野、武蔵などの者がおり、村や漁村から売られてきた者たちであった。これらの史料にみえる数値は遊廓から郡奉行所に申告されたかなり抑第3章えたもので、実質的にはもっと多かったものと推定され、その繁盛ぶりがうかがえる。遊女屋の数は、江戸時代をとおして六軒から九軒ほどであったとおもわれるが、その浮沈は激しく、遊女屋の経営者も名称も時代とともに移り変わっていった。当時、潮来と並び称された遊廓に祝町があった。祝町(大洗町)に妓楼が許可されたのは潮来と同時期の元禄八年のことだった。それまでは、半農半漁の寂しい村だったが、遊女屋ができるにおよんで町並みが整い、人口も増えた。そのほかにも、湊村に出入りする廻船の船頭衆や水主たちを主な客としていることなど、潮来遊廓との共通点が多い。祝町の遊女屋は、初め五軒であったがその遊女数は文のち七軒に増えている。政期に五楼で七O人程度、天保期に一四01一五O人、文久期に二ニOー一四O人で、天保十五年頃には五軒で一年間に一000両ほどの収益があり、文政期に領主の願入寺に納められた祝町の年貢は五OO両におよんだという(『大洗町史』)。遊廓の繁栄に伴い、遊女屋と客の仲介をする者があら遊廓と仲茶屋われ、潮来ではこれを仲茶屋あるいは仲宿と呼んだ。他所では引手茶屋ともいい遊女と客との交渉や酒食の提供、代金の決済などを請け負っていた。遊廓を訪れた客は、まず仲茶屋に入り希望の遊女を指名してこれを呼出し、芸妓をあげ、酒宴を催したのち遊女屋へ向かうのが通例であった。「関戸家文書」の「仲茶屋議定書」には、て客が領内の者であることを隠して、遊女の「宿下ケ」(遊女屋から仲茶屋へ遊女をむかわせること)をしないこと。一、客が武士の場合は茶屋でその万を預かったうえで、遊女屋へ案内すること。一、「宿下り」の際、万一遊女と客が廓外に出た場合、「遊女屋議定書一」に書いてあるとおり取りはからうこと。395