ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

毎年のように起きる洪水で葦原にはますます土砂が堆積し大きな洲が次つぎとできてい1000年前(上)と現在の潮来周辺った。人びとは台地部から次第に低地部にも住むようになり、米作りのため洲は水田として開発が進み、現代のような姿に変わってきたのである。低地部に居を移した人びとにとって最大の悩みは、毎年のように起る河川の氾らんであった。水との戦いは土木技術が未発達第1-3図の長い間続き、その苦しみは想像以上のものであった。堤防や水門のしっかりしていなかった時代ヶ浦ゃ、北浦などのもと入江になっていた所の出口をふさいだ。こAノ?レられず、出水の際はどうするかを常に考え、備えておかなければならな川ぺりに住む人びとは、水害の恐怖から離れ面に現われてきた。である。かった。水の町潮来の歴史は水の利用と水との戦いの歴史でもあったのて震ヶ浦は湖として残されることとなり、たまった土砂は洲となって水}れが佐原の十六島をはじめ大洲、徳島の誕生であ河川改修が完全になされた現代でもる。いったん異常な降雨にあえば一方洪積台地は風雨に削られ、樹枝状の谷が奥深く台地にくいこむ形治水は万全とはいえない状況なのである。水は高きより低きへ流れるこの自然の理に従い、自然に逆らわない治水を基本として、自然との上手潮来町の大地と気象の地形を形成していった(第Il2図参照)。先に述べた河川の働きや、台地に進入した海、雨水などに流され堆積した腐食植物、砂離、砂泥(シルト)砂が台地に続く低地を形成し、}れを沖積低地とよぶようにななつきあい方が求められるであろう。った。本町の低地から千葉県佐原、小見川にかけての広大な水郷平野はこうしてでき上がってきたものである。霞ヶ浦や北浦は周囲からの砂泥第I章の流入で湖底はどんどん浅くなり、まわりの低地にはヨシ・マコモなどが繁る葦原が広がっていった。29