ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
世近W次郎)の名が消え、新たに藤屋、銚子屋が加えられており、仲茶屋生き残りの厳しさを物語っている。潮来ではいつしか潮来節と呼ばれる民謡が唄われるよ遊廓を訪れた人びとうになり、明和年間(一七六四1七一)に江戸で流行して仲町通りの茶屋(~潮来図誌」より〕第IV-46図多くの文人墨客が当地を訪れるようになるが}れに先立つ延享元年からは、潮来の名は全国に知られるようになった。以後、(一七四四)の春、儒学者服部南郭が潮来に来遊し、風景や遊廓を題材としたいくつかの漢詩文を残している。)れは、のちに潮来竹枝(「竹枝」とは漢詩の一形態で、男女の情事や土地の風俗・人情を詠ったもの)の起源といわれた。また、文化年間(一八O四i一七)には十返舎一九が常総を旅して、途中潮来に立ち寄り、柏屋や蓬莱屋に登楼している。ほかには、文化元年に備後国の詩人菅茶山、同三年に式亭三馬、同五年に藤堂良道、同十四年に小林一茶、文政八年(一八二五)に渡辺寧山、天保十二年(一八四一)に梁川星巌が遊廓を訪れ、のちに三馬は「潮来婦誌」、藤堂良道は「潮来絶句」を著し、寧山は「海雲山在潮来北里」「潮398来花柳」「潮来泉屋より望図」(『四州真景』所収)を描いた。潮来遊廓へはこれら有名な文人が訪れる反面、外来者が多く入り込むという性質上、幕末には尊壌派志士たちの会合の場として利用されることがしばしばあった。元治元年(一八六四)の争乱に際しては、同二月に天狗派幹部の藤田小四郎、岩谷敬一郎、竹内百太郎の三者が遊女屋に集ぃ、筑波山挙兵に関する談合をもったという。)ののち、当地も戦禍にまきこまれ、『潮来遊里史』によると、九月二目、佐倉藩の軍勢が加藤洲あたりまで出陣して、浜一丁目へ続けて焼玉大砲を発射し一、二か所燃え上がったところ、上一丁目やその他の人々が水をかけての消火中に、そのまま引き上げた。(中略)翌三日、麻生藩の軍勢が、大生原より辻の中通りから潮来文武館へ砲撃を加えて焼失させ、つぎに潮来陣屋へ放火して焼き払った。それから遊女屋二軒(二葉屋と玉屋)、そのほか引手茶屋二軒ほど打ち壊すよう命令があった。麻生藩兵が引き上げたあとで佐倉藩兵がふたたび襲来して文館のうち焼け残った書庫を焼き、陣屋の焼け跡を見まわって諸道具の隠しておいたものまで焼き払い、それおおもんから浜一丁目へ放火し、大門(遊廓の出入口)の外側は泉屋半兵衛まで、下側は川付近、上の方は大門のきわまで焼き払った。とある。」の時、遊廓は天狗派および諸国の尊嬢志士の潜伏場所とみなされ、戦火をこうむったものとおもわれる。なお祝町も交通の要地にあったことから、尊援派志士の活躍の舞台となっていた。引手茶屋の相模屋は長い間志士たちの会合の場に使用され、清川八郎も同茶屋に宿泊している。元治の争乱に際しては、幕府軍が宿営として利用することを恐れた潮来勢により火を放たれ、祝町一帯はほ