ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

とんど全焼したという(『大洗町史』)。安政期の開港はさまざまな問題を引き起こしたが、開港による物価騰貴と遊廓かでも金銀比価の違いから生じる貨幣問題は、急激な物価騰貴をまねき、大きな社会問題となった。生糸をはじめ各種の商品が軒並み値上がりし、生活必需品の中心をなす米、麦、豆類が値上がりするにおよんでは、民衆の生活も著しく脅かされた。万延元年(一八六O)の作柄は平年並ではないにしろ、決して凶作という状態ではなかったのに、太田村(常陸太田市)では物価騰貴による餓死者を出している(『水戸市史)の時期、潮来遊廓もその例外ではなか中巻』)。った。文久元年(一八六一)には、遊女屋から村役所に上納金の一部撤廃および削減を願い出ている(「関戸家文書」)。そのおもな内容は次のとおりである。て去る巳の年(安政四年)には、各遊女屋から客一人につき、鍾銭二六文を徴収し、そのうち六文は「御仕法所」(会所)の運営資金にあて、二O文は遊女屋の予備金として一0か年の間積み立てておき、困った時にこれを使うよう定められていた。}の積立金についてまだ満期にはなっていないが、現在とても困っているので下げ渡してはもらえないだろうか。て銀銭二六文の徴収金のうち、会所に納める六文を除いたほか二港町の繁栄と推移O文については、今後これをやめ、巳の年以前の通り鍾一O文の積立金として、さきの六文と合わせ、客一人につき一六文ずつ徴収し、これを会所に納めるということにしてはもらえないか。一、水戸藩に対しては、浜役と称して年間一五両を遊女屋全体とし第3章て納めてきたが、今後はこれを免除してはもらえないか。一、遊女屋が抱えている芸者に課せられる上納金についても、今までは四O両ずつ納めてきたが、今後はこれも免除してはもらえなないだろうか。一、長い間、水戸藩には客一人につき銀一八文ずつ納めてきたが、巳年からは六文増えて、合わせて錯二四文ずつ納めることになっていた。今後は)のうち一四文を免除して、客一人につき鍾O文の上納金としてはもらえないだろうか。この内容から、遊廓は会所と藩へ毎年多額の金を納めていたことがわかる。しかし「永年之問、莫大之金子無滞上納仕候」とあるように、以前の遊廓であれば容易に支払える金額であった。それが、開港以来の物価高の影響で、客足も遠のき、「如何様質素倹約相守候而も」暮らしは苦しくなる一方で楽にはならず、ついに前記のような内容を願い出るととなった。」の時期の遊廓困窮のほどがうかがえる。同史料のなかには、さらに借金を願い出ているものがある。年代は不詳だが、文中に「去る子年兵火之大難より引続キ、去年辰年己来稀成違作ニ而、連々窮迫ニ陥リ」とあることから明治二年のものかと考えられる。借金の理由には、「百抱遊女等者年季明茂多分ニ在之、追々人別相減、且家作等茂大破-一およひ、方今之形世-一至候而者如何共手談(段)尽果、当惑難渋至極ニ奉存候」として、新たに遊女を抱え入れるための支度金および壊れた家(戦禍により)の修理代をあげている。その内容は、「家作補理手当」に金一OO両、「遊女抱入手当」に金一五O両、「遊女之見廻り、夜具布団手当」に金一OO両、」れが遊女屋六軒分で、合わせて金一二OO両の借金を申し入れるものであった。なお、返済については一日一軒につき銀一八匁を会所に積み立てておき、二回にわけで納める仕組みになっており司利息付の五か年賦とされた。また、「遊女屋仲茶屋共御税上納、第三大区小三区行方郡潮来町」に399