ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

世は明治四年(一八七一)に新政府に収められた税額が記載されており、遊女屋は「金三拾四両弐分ト銭弐百四拾文」、仲茶屋は「金弐拾弐両弐朱」近を納めている。なお、明治四年は新貨条例が公布された年で、貨幣の呼W称が円・銭・厘に代わっている。そのため、のちに新貨幣の単位に置き換えられた。それによれば}の年の税額は合わせて「金五拾七円壱銭九厘弐毛」となり、うち遊女屋は客一人につき銭一O文ずつ四三i四九人から徴収し、)れを新貨幣に換算して「金三拾四円五拾壱銭九厘毛」を「遊女税」として納め、仲茶屋は一軒につき五O銭ずつを、四五軒分合わせて「金弐拾弐円五拾銭」を「仲茶屋税」として納めている。明治五年十月、太政官布告第二九五号が発布され人身売遊廓の衰退買禁止令と娼妓開放令が通達された。}れによって、法律上、僕蝉娼妓の年季奉公が禁止されたわけであるが、仕事がなくて生活にも困り、なかには、営業再開の嘆願書を出す者もいfここうして本人の自由意志という名目のもとに公娼制度は続けられた。芸娼妓を開放し、自由営業を認めた政府は}れまで遊女屋に課していた国税を地方税とし、府県単位で取締規則を作り、地方官が管理するよう指令した。ようするにこの時点では、公娼は国家の公認から地方官庁の公認にかわったにすぎなかった。明治三十三年には「娼妓取締規則」および「貸座敷営業取締規則」が制定されて、取締りは強化されたが、遊女屋は名称を変え、貸座敷業として合法化される結果となった(『潮来遊里史』)。潮来の遊廓は水運の隆盛とともに栄えてきた。明治二十年代半ば頃までは、蒸気船の就航や利根運河の開通などにより通船数も多く、水運の盛んな様子がうかがえるが、その後の鉄道の普及は水運に大きな打撃を与えた。明治二十八年に水戸|東京聞を結ぶ常磐線が完成し、同三十年には総武線、昭和七年には成回線が開通した。」れにより、利根川の水運は衰退の一途をたどる。『潮来と鹿島香取』(高村菰村著)によれ400ば、潮来には、明治維新前後まで九軒の遊女屋と四O余軒の仲茶屋があり、遊女も一OO余人を数えた。しかし、水運が陸上交通におされて衰退したことにより、大正七年には貸座敷三軒、仲茶屋一七軒にまで減少したという。昭和五年祝町の遊廓は、最後の娼妓三人が潮来に移され廃止となった。第二次大戦後の同三十三年、売春防止法が施行されるにおよび、潮来の遊廓も名実ともにその歴史をとじた。