ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第四章潮来地方の宗教と教育・文化第一節水戸藩の宗教統制とその影響江戸幕府による寺社の統制は、幕府創設から四代将幕府の宗教政策軍家綱の寛文年間にかけて確立した。幕府は、庶民の生活と深く結びついて活動する寺社が、反幕府勢力になることをおそれで厳しい統制を加えた。経済的には、寺社に朱印地(将軍家よりの寄進地)や黒印地(大名、旗本よりの寄進地)、除地(免税地)を与えて保護する一方で、行政機関と潮来地方の宗教と教育・文化しての寺社奉行を置き、法令を定めてこれを統制した。定められた諸宗ねぎ寺院法度や諸社禰宜神主法度には、寺院や僧侶、神社や神職の守るべき道が規定されている。また仏教各宗ごとに本山・末寺の制度を整えさせキリシタン(キリスト教またはその信徒)の禁圧強化をはかるとともに、寺院の檀家制度(寺請制度)を定めて、宗門改めを実施した。寺院の本寺と末寺の関係は、寺領の確保を目的に各本末制度の確立地の私寺が大寺を頼った平安時代中ごろから盛んに第4章なり、室町時代になって宗派や師弟聞の本末関係に発展した。江戸幕府は、宗教統制策の一つとして}の本末関係を利用した。具体的には、各宗寺院をそれぞれ、本山|中本山|直末寺|文末寺などの上下の関係に組織化し、本山を寺社奉行が統治する方法をとったのである。江戸時代に本末関係が、制度として確立する時期は、諸宗寺院法度が制定された寛文五年(一六六五)ごろのことと思われる。この本末関係の様子を、潮来地方の妙光寺と普門院の二つの寺院を例にみてみよう。正応三年(一二九O)に開基された築地村の本園山妙光寺は、常陸の日蓮宗寺院の中で、寺歴がもっとも古い寺院とされている。「江戸幕府寺院本末帳」によれば、妙光寺の本寺は、武州荏原郡池上の長栄山本門寺たっちゅうで、朱印地百石と塔頭(大寺の境内にある脇寺)二四か寺があり、末寺は一五五か寺にのぼっている。妙光寺のもとには、第wl幻図のように四か寺の塔頭と妙蓮寺、恵雲寺の二か寺の末寺がある。しかし日蓮宗の「開基帳」(水戸市彰考館蔵)には、妙蓮寺と恵雲寺のほかに、多賀郡赤浜村(高萩市)の堅能院(願成寺)と、安国院を加えた四つの末寺を記している。堅能院と安国院は、以前はともに上総園長柄郡鷲山寺の末寺であったが、延宝八年(一六八O)本末関係のもつれから、不受不施派(僧は宗徒以外から施しを受けず、まJ阜た施しをしない主義で織豊期に京都妙覚寺の日奥がはじめたとされるが、キリシタンとともに幕府から禁止された)からの離脱を命ぜられ、妙光401